人を分割して捉える

良い人間と悪い人間の区別ができるようになりたい、と願ってから1年以上が経った。ここでの善悪はあくまで私のポリシーの一つである「人を傷つけるか否か」を基準としている。そういう意味での悪者に会ってから、十分すぎる期間を経た。その人は、盗み聞いた話によると、今も生きているらしい。

そもそもだが、この良し悪しは私が決めた恣意的な評価である。法律に則っていない自分勝手な指標による峻別である。したがってこれを他人に押し付けたり訴えかけたりするのはナンセンスだ。
逆説的に、他人から自分への強要も望ましくはない。人が「〇〇さんは××な人で〜」と言っていたとしても、それは参考にすぎない。あくまで自分の観測できる範囲で判断すべきだと思う。観測できない範囲のことを含めた過度な断罪をするほど、私は理性を持っていない。あくまで心の中で「この人は良い」「この人は悪い」と、自分の範囲で区別するだけである。
さらには、そのレッテルは逐次更新しようと思っている。悔しいが、人は変わる。どんなに気に食わなくても、数年後にはコロッと好青年に変貌していることはあり得る。もちろん、珍しいケースではある。しかし、可能性がある限り、私はその人を好きになりたいし、好きになれたら楽しいと思う。だから私はできる限り好意的に見つめる。

私はしばしば聞き役に徹することがある。
この理由はたくさんある。私の学がないことや、好奇心が旺盛であること、会話が途切れると気まずくなることなど。特にその中で際立っているのが、その人の良いところを見つけたい、ということである。
人が話していると、その情報の傾向から言葉の速度まで、端々にその人らしさが現れる。それを通じてその人を推測することができる。すると、相手のことをより深く理解する手がかりになり得る。
無論、邪推であるし、不躾だと思う。相手を自分の想像の範ちゅうに収めようとしているわけだし。内心は自由でも、それはいずれ言動に現れるおそれがある。さらに推理が見当違いだったら目も当てられない。
だから時々、ぶつけてみる。もちろんこれは相手に不快にならない形を意識する。ときどきユーモアに昇華しようとしてみる。たとえば「偏見を言うんで、それが合ってるかどうか教えてもらっていいですか?」と直球でぶつけてみる。たとえば「こんにちは!えーーと、中華が好きだ!」と出会い頭に指差しながら聞いてみる。
すると相手が微妙な顔で答えてくれる。8割がた間違っているとわかる。そのフィードバックをもとに、また修正する。そうしてぶつけて、また修正する。この繰り返しで、相手をわかっていく。多様な一面を知っていく。
そしたら、好きになれるかもしれない。無理かもしれないけど。

人を総合することは避けたいと思う。これは中学生のときから変わらない私のポリシーだ。人間は必ず複数の面を持つ。いわゆるオモテの顔・ウラの顔に似ているが、これはあくまでジョハリの窓で分類したにすぎない。それだけでは不十分であり、人間はもっと細かい多面体である。
たとえば食べ物の好みをとってもそうである。「中華は好き」だけで終わらず「中華は好きなんだけど汁物は苦手だからワカメスープとかセットでついてくるの苦手なんだよね」まで含めてその人である。さらには「でもたまごスープは好きなんだよね、だってあれは臭みがないから。あ、でも俺がよく行く店のたまごスープって多いんだよね。マグカップに収まる程度のたまごスープが一番好きかな」までも含めてその人である。
このように人間は、想像よりも多くの面を持ち、一生かかっても理解しきれない情報量を持つ。人は難解で複雑怪奇だ。
それをある一点に絞って総合するのは、いささか乱暴だと思う。もちろん実用上そのようにした方が楽である、というのは重々承知だ。「あいつ嫌い」「こいつ好き」と二分したほうが簡単であるし、直感的である。
しかし、それによって、人という唯一無二の面白い読み物を切り捨ててしまうことは、私には考えられない。唯一無二の学習データを持っている高性能かつリアルタイムな人工知能を目の前にして、話しかけたいと思わずにはいられない。だから私は稚拙な分析を続けたい。だから、人間を嫌いになっている暇はない。

では、苦手な人はどう捉えるべきだろうか。私は不謹慎な人や我の強い人間が苦手である。話していると、周囲の目を気にしてしまう。私は全ての人間が基本的に好きなので、誰かが他を攻撃したり萎縮させたりするのを見るのが苦手である。しかし、そのような人間にも特有の体験や思想があり、それは私にとって魅力的な内容である。このような状況で、どのように割り切るのが望ましいのか。
今の私は、このように考えている。その人の一面だと受容すればいいだけだ。というのも、先述の通り人間は複数の面を持っている。だから「この面は苦手だな」で切り捨てればよい。もちろん他方に危害が及ぶ場合はその限りではないが、一対一のときに相手を矯正しようだなんておこがましい。とはいえ、同化するわけでもない。そういうときは「これはただの一面にすぎない」と思うだけである。
ただし、ここで注意されたいのは馴化されてはならないことだ。クローズドな環境の時に繰り返し同調したせいで、オープンな場ですぐに反応できないことがある。果てに、完全に同化する場合もある。実際私も何回かやらかしている。他人を傷つけるのを避けたければ、馴化を随時省みる必要がある。

私はこういう思考プロセスで日々を生きている。
たまに面白いかなと思って、社会通念に反して私に危害を与えた人を腐して話すときもあるが、実は言うほど怒っていない。誰しもそうなり得るし、自分も現在進行形でそうであるに違いない。心がけていても、人を傷つけないで存在することは難しい。かといって、諦めるわけでもない。
私は精一杯の努力で、他人も自分も大切にしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?