敵前逃亡とその家族

家族の話が出る。
今日は親の半分を失望させ、半分を喜ばせた日だった。

俺は人生の岐路に立たされている。今までの人生の中でもトップレベルな選択を迫られている。この一回で決まるほど人生はヤワじゃないが、それでも苦悶はする。
その余計な苦悩が邪魔をした。もちろん自分なりに努力はしてきたつもりだった。でも気の緩みがあったのも事実だ。かつては余裕だと思っていた目標が、次第に現実味が薄れていき、ついに遠くなってきてしまった。
悩むことで停滞し、停滞することで悩む。時によっては無意味なことに葛藤をぶつけてしまう。そして時間だけが過ぎて、また焦る。負のスパイラルだ。
戦いの日が近づく。でも自分は一向に成長しない。「諦めなければ必ず勝つ」とはよく言うが、それは努力できる人間についての話だ。私のようにウジウジしている奴に叶う夢はない。

現在、私は親に頼りきりの生活をしている。そして世間一般的にそれが許されるギリギリの年齢だ。だからそろそろ終止符を打つ必要がある。ただ、この世界は優しいから残酷だ。誰も「もう終わりだ」なんて言ってくれない。このまま行っても何も得られないことを宣告してくれない。だから、自分で筆を折らなければならない。「自分は何者にもなれなかった」ということを認め、その上でまた別の戦いを始めなければならない。
これは実に酷いことだ。自分を信じて応援してくれたいろんな人を裏切る行為だ。きっと誰しもが肩を叩いてくれるけど、それは同時に失望を含む。
そんな甘えを、ついにしてしまった。自分で自分に区切りをつけた。もちろん、その上でまた競争は止まらない。でも、目標を下げてしまった。

俺は本当に親へ感謝をしている。洗脳とかではなく。
もちろん親には子を育てる責任がある。しかし誰しもがその責任を遂行してくれるわけではないのも事実だ。なぜなら自分以外の命を背負うということは、逃げ出したくなるほど重たい義務が四六時中伴うからだ。親の言葉を借りると「養いきれなくなったら、首を吊るってことになる」。
その中で俺の親は子供に対し、時に正面からぶつかり、時に心配を隠して、今なお真摯な態度で育ててくれている。
よくある質問と回答に「尊敬する人は?」「親です」というのがある。子どもの頃はそれを偽善者のテンプレートと思っていた。しかし実際こうして考える親の不安は計り知れないし、その上で毎日を淡々と費やす力強さは筆舌に尽くしがたい。

そんな親。俺みたいな浅慮な小童を信じて疑わず、黙って支えてきてくれた、偉大な人。
それに対して「俺は何にもなりませんでしたし、今後もなれそうにありません」と伝える行為。それは親不孝という言葉では表しきれないほどの侮辱だ。
親がそれを引き止めるわけがないのもわかっていた。言葉の上では「お前の人生だから好きにしたらいい」と言ってくれるのもわかっていた。受け止めてくれるのもわかっていた。何事もなかったかのように日常に戻ってくれるのもわかっていた。
俺は卑怯者だ。

さて、俺はこの行為の責任を取らなければならない。
まず第一に、この降りた先での戦いに最善を尽くすことである。このまま打ちひしがれている場合ではない。フィクションのように散って終わりではなく、生活はこのまま続いていくのだ。毎日に真摯な態度を取る義務がある。
さらに、これを自分の問題として受け止めなければならない。「環境が悪い」「時流が悪い」なんていくらでも言える。俺はプライドが高く、今日の帰り道には家族のせいにしようとしてしまった。しかしそれは言葉遊びに過ぎない。実際、努力すればできた可能性があるものを、努力しなかったのが自分だ。他人にも親族にも責任はない。全て自分が引き受けるべき問題だ。
最後に、親に感謝を伝える。これが俺にできる一番の奉公であると思う。父親の家系が短命というのもあるが、それを考慮しなくても人はいつ去ってしまうか予想できない。感謝を言いたければ毎日言うべきだし、俺は折に触れて言っている。
この文章を読んでくれている人も、こんな乱文を読み、俺に寄り添おうとしてくれて本当にありがとう。こんな紆余曲折して結局ありふれたことを言うだけの、読みがいのない文章だったけど、気持ちの整理のために書いた。そしてこのことは将来、自分の気持ちをねじ曲げてしまわないための備忘録となるはずだ。そう確信して、この文章を残す。2023/12/18

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