不変になりたい

成長したくない!贅沢な悩みだけど、僕は一生変わりたくないと思っている。人生の淵までずっとこのままがいい。
具体的に言うと、好きなものは寿司のままがいい。ナスの良さを知りたくない。靴ひもを結ぶのが下手でいたい。健康でいたい。不安なままがいい。ふわふわしてたい。同じことを言い続けたい。器用になりたくない。
こうした今を固定した、未来永劫不変が僕の望みだ。なぜそう思うのか。自分でもわからないが、さまざまな要因があると思う。
一つには、自由の獲得がある。ここ数年、私は急速に考え方を変えた。たくさんの人を見て、たくさんの情報を知るようになった。もちろん自分は未熟で、飽くなき探究がまだ残されている。しかし、足りない頭で数多の選択肢を考えるようになった僕は、思考がパンクしてしまうようになった。これ以上の学習は、今の私には受け付けない。
ただこれは、情報を消化することで時間とともに解決していくだろう。他にも考えられる要因があって、その中でも一番際立っているものがある。それが「人間チェックポイント」を目指したい、という欲求だ。
この欲を説明する前に、私がよく言う表現を提示しておく。それが「あっ、お前、塾とか行ってんだ」という感覚である。これは中学2年生も終わりに差しかかった肌寒い時期、6時限目が終わって友達に「今からお前んちでマリパしようぜ」といつもみたいに誘ったら「あー、ごめ、おれ塾だから」とさらりと断られた時の感情である。仲間だったはずの者が、突然自分を出し抜いたかのように正当に努力を始める。暗に抱いていた焦燥が、孤立により発火する。あたかも裏切られた喫驚と失望を抱く。しかし、誤っているのは自分だとも、ここでとやかく言うのも惨めだとも自覚している。その苦し紛れに「あー、そっか」と息の下で言う。
僕はそういった感覚が苦手だ。もちろん、これは自分が努力を怠っている引け目が原因であるはずだ。ゆえに、努力すれば避けられるのかもしれないが、自分で自分を認められるほどの努力をするのは果てしなく難しい。よって、この感情は自ら避けるのは困難だ。
だから、他人にそんな感覚を味合わせたくない。僕が自慢をしたがらないのは、そのためである。さらには日常会話でも、話題に私の情報を極力排除して話そうとしている。たとえ気心の知れた友人でも、僕の苦悩や功績を話したくない。
過去に何度か、面白くなるかと思って話してみたことがある。自分がいかに苦労して、いかに成功を収めたか。しかし、途中から顔が熱くなって嫌になった。自分を客観視してみると、あまりにも滑稽で卑劣だったから、恥ずかしくなってしまった。その度に反省した。
そういう意味で、僕は成長したくないのだ。ただ、成長しなければ人を傷つけてしまうことがあるため、そうした修正は除く。成長アンチとして、これからは生存はできる程度に社会と迎合しつつ、少なくとも外見上は変化しないように心がけていきたい。


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