人生の楽しみは無限大です。

最近はもうてんでダメである。気持ちはある程度晴れやかだが、状況は悪化している一方である。さらには、それを改善する気も毛頭ない。このまま未知の病に罹患して、体が爆発するみたいな、そんな破滅が起きるだろうという一縷の望みにしかすがれない日々である。

すべきことは毎日あるが、キャパシティはとっくにオーバーフローしている。それがバレないように、つつがないふりをしている。それも永遠には続かない生活だ。いつか終わりが来て、すべてが露呈して、そして努力は水泡に帰す。失望されてエンディング。
僕は僕が幸せに生きることが人生の最大目標と設定したがために、現在の幸福を最大化する選択ばかり選んでしまうようになった。目先の楽を取って、将来のことを放棄してしまいがちになってしまった。こんな人間を、俺は心底愛せるけれども、全世界が許容するというわけではない。
人生の立ち回りミスった~!

最近言われた言葉が、じわじわと心の瑕疵になりつつある。
「てみずさんは、健常ですよ」
これには文脈がある。相手がとある障害をもっていて、それに苦しんできた。一方で私てみずにはその兆候が一切見られない。だからてみずさんは健常である。そういう文脈だ。
だからこの場合の健常とは、一般的な意味ではなくむしろ精神医学的な意味合いである。だからこれを字義に立ち返って捉えるのはむしろ卑怯である。相手の発言を恣意的に曲解し、傷つくなんて、何の意味もない。
でも、心の何処かで違和を感じる。
僕は異常だと思っていた。これほど苦しんでいる、これほど泣きたい、これほど喚き散らしたい、これほど終わりたい。なのに、僕は他人から見ると真っ当な人間をしているらしい。僕は特別ではないらしい。
こんなに大変なのに!?
それはそれとして、その障害を調べたら本当に大変そうだった。でも僕はその人がそうだとは思いもよらなかったので、想像を絶する努力をしたのだと推察すると、頭が上がらない。尊敬の念が止まない。

私には具体的な夢がない。
優しくて含蓄のある人になりたい、とは思っているけれども、具体的にこういう職についてああいうポジションの人になりたいとは思っていない。本当に、僕は優しい人間が好きで、それになりたいだけである。
でもそうはいかないらしい。本人が楽しくても、社会はそれを悪とする価値観を植え付けてきた。その価値観は僕の心の深いところに巣食って、足を掬う。そうしてウジウジするしかないのである。

僕は自己の確立が成されていない。
すぐに影響を受ける。発言が二転三転する。自分の志向性を直ちに失う。その上、夢想家である。現実を否定し、現実に否定される存在である。
だからこれからも根無し草である。そんな葦として日々をそつなくこなすしかない。目の前のことを一つ一つ処理していくしかないみたいである。無理だ。

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