憎悪と良心の芽生え

今日は今まで恨んできた人の名前を2人聞いて、妙な気持ちになっている。1人は世間話に出てきた。どうやら人に騙されたらしい。もう1人は偶然近くにいた。あわや遭遇するところだった。

僕はここ数年、とにかく人を妬んできた。連日連夜、たくさんの人を心の中でコテンパンにしてきた。サバンナで虎に食わせたり、トラックに高速で轢かせたり。時には、自分とその人を紐でつないで、高所から俺が落ちることでその人が発射されるという妄想までした。

とはいえ、昔から性格が歪んでたわけではない。
小学生のころは学級委員長だった。曲がったことが嫌いで杓子定規。クラスが騒がしくなったら「静かにしよ〜!」と言う係をしていた。
でも楽しいことは好き。お楽しみ会では友達と漫才をした。修学旅行でボーちゃんのモノマネを指示されたときも、全力で取り組んだ。
手のかからない理想的な子供だったと思う。

そんな私が、憎悪を覚えたきっかけがある。
小学6年生の頃だった。学校で踊りを練習することになった。それは学校の伝統で、地域の祭りやイベントなどで披露することになる。そんな6年生を神格化することで、地域との連携や下級生の統率を図る。つまり、学校の威信をかけた一大プロジェクトである。
そのため、学校は授業や放課後を潰して一年間みっちり練習させる。不自然なくらい情熱を注ぐ。練習中に近隣から「うるさい!」と怒号が飛んできても、厭わず続ける。そこには常軌を逸した訓練があった。
そんな中、地域での祭りに向けたスローガンを決める時間が設けられた。学級会だ。クラスの代表が司会と書記をして、現在の課題と改善策を挙げていく。「動きのキレが……」「視線が……」「最後まで集中が……」などと、アイデアが出てくる。
とはいえ、学年全員が同じ情熱を共有しているわけではないので、意見もまばらだ。一言も話さないでうつむいている人も居る。
ただ、これは実は合理的だ。というのもクラス約40人全員が意見を出したら議論がまとまらないことは目に見えている。少なくとも小学6年生の司会には不可能だ。しかも最後にはスローガンにまとめる必要がある。意見が増えると、言葉の洗練に時間がかかる。だから皆、同じような意見は出さないようにしていた。議論を進めるために必要な沈黙であった。
かくして1時間が経ったころ、意見はまとまり、言葉も候補が絞られた。あとはそれらを適切に組み合わせるとスローガンが完成するだろう。中休み前の僕たちはウズウズして、遊びのことを考えていた。
「はい、じゃあ私たちの目標は、『足並みを———』」
ちょっと待って!
は、と僕たちは皆思った。静観を貫いてきた先生が、突然口を開いたのである。先生は指を机にトントンとさせながら、
「あのさ、発表してない人いるよね?」
と問いただす。
「それってさ、みんなで考えた目標じゃないよね。ちょっとそのスローガン一回消して、考え直して」
クラス全員が同じ気持ちになったのは、この時だった。いうまでもなく、その矛先は地域祭や伝統ではなく、たった1人の、眼前の、モンスターである。
怪物は続ける。
「まだ意見出してない人、手、あげてみ?」
パラパラと上がる手。独裁者は司会を顎で指図する。
「ほら、こんなに居る。中休みと次の授業使っていいから、最初から考え直して」
クラス中がキィーン……と凍てついていた。議論は振り出しに戻された。
そこから始まった2周目の議論は、1周目よりもぎこちなかった。全員が発表する義務が発生したからである。加えて、意見をまとめるために
「〇〇さんの意見と××さんの意見はまとめられます。どちらもみんなが協力して意識しながら頑張ることで———」などと口走ると、
そんな綺麗事じゃなくてさァ!
とゲームマスターからのヤジが飛んでくる。
煮詰めるフェーズにおいても、意見が乱立してしまい言葉の洗練が難航する。「意識する」「注意する」「忘れない」みたいな類義語同士で迷う。困り果てて司会者が多数決を取ろうとすると、また小学1年生がソレジャミンナノイケンジャナイデショウと喚く。結局、給食の時間までかかって、それでも答えが出ないまま翌日に持ち越されることとなった。

今となってはそんな学校に行く義理はないとわかる。声を上げる適切な方法もわかる。しかし、当時の僕はその"憎悪の呼び声"を悶々と抱えていたのを、今でも覚えている。

さて、今は逆に人を容易に憎むようになった。もちろん、どんな人にもそりが合わない一面はある。違和感を感じること自体は悪いことではない。心の中でモヤっとしても口に出していないということは、相手に好意があるということだ。

しかし、最近はそれが窮まりつつある。友達と話しているだけなのに息が詰まるような感覚に陥る。声が出なくなって、心臓が押しつぶされそうになる。この感情を言語化するのはまだ難しい。しかし、なんとなく直感ではわかる。
これはあの時の苦痛に似ている。自分の慣れた感情とは相容れない感情を持ってしまう痛み。でもあの時と逆の苦しみ、すなわち良心の呼び声だと思う。そしてそれは自分が変わる機会になってしまうのだろう。そう確信している。


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