かくしてそれになる

苦手なものは、いずれそれになるから苦手なのかもしれない。最近そう思うようになってきた。認めたくはないけど、他人がそうやって嫌っていたものになってしまうことを散々見てきた。今も見ている。

あらかた人間の欠点は語り尽くされていて、共有され尽くしている。それなのに人の欠点がいまだに語り草なのは、克服するのが難しいからだと思う。知っていても行動に移せない。だから、易きに流されるとすぐ欠点が剥き出しになる。渦中の自分では気づかない弱みが露呈する。むしろ他人からは際立って見えるというのに。
人のふり見てわがふり直せ、とはこういうことなのだと思う。

僕は僕なりに自身を矯正しているつもりだ。もちろん、自堕落な生活をしているし、妥協もしている。しかし、人を貶めたり蔑んだりはしていないつもりだ。自他を軽んじることはすべきではないと、自分に強く言い聞かせているはずだ。
ただ、このままでは限度がある。というのも、自分一人の視点では凝り固まって仕方がない。バイアスにも気付けない。人にテコ入れしてもらう必要がある、とヒシヒシ感じている。

でも、最近は自分の意見に陶酔することが多くなってきた。
他人の話を聞いていても内心「それは違っていて、なぜなら———」と反駁を構築してしまう。あまつさえ、議論を放棄して他のことに逃げてしまう。もちろん、相手には気づかれないような形でその"逃走"をしているつもりだ。しかし、気づかれているかどうかは私には知り得ないし、そもそもそのような態度を繰り返していてはいずれ誰の話も聞けなくなってしまう。
これは関係がないかもしれないが、最近文章を書いていると逆接を多用したくなる。思い過ごしかもしれないし、元よりそうだったのに自覚してなかっただけかもしれない。けれども、もし本当にこの傾向が私の性格の変化の現れであったとしたら、私は今、自分をも含めた全てを否定する指向性を持ち始めているのではないだろうか。

もっと自分を愛し、他人を愛していく必要がある。
もしくは自分を愛し、他人を遠ざけることを必要かもしれない。ともかく、私のモットーは他人を大切にすることである。これに適うことはなりふり構わず実行すべきだ。
そのためにも、先ずは自分を大切にできるように努力しよう。自分を好きになれるよう、もっと一心不乱に自己研鑽を行う時期である。そう割り切って、努力を積み重ねるだけだ。面倒だけど。

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