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書くこと

ここ最近、「書く」ということをしていなかった。
でももう一度、ちょっとしてみたくなって、パソコンを開いた。

よく日記を書いている。高二の時から始めた。
最近になって、あまり書かなくなってしまった。どうしてだろう。大学に入っても続けていた。寝不足になってでも書いていた。でもこのところ書いていない。

私にとって日記を書くことは、自分の気持ちを書き出すということ。日々の生活の中で、思わず笑みがこぼれ落ちるような出来事もあるけど、そういう日ばかりじゃない。どろどろとした黒い感情が生まれることもある。その日生まれてしまったそれを綺麗にしたくて書く。あたたかい感情はそれを忘れないために書く。気持ちを整理整頓して、明日の私と、私の周りにいる人々と気持ちよく過ごすために書く。かと言って、黒い感情を無くしたいというわけではない。そう感じてしまった私を否定したいわけでもない。むしろ、そう感じた私を、黒い感情を、ちゃんと抱きしめたい。

今日という日に何があってそれにどんな感情を抱いて、だから明日はこんな日になりますようにと願いを込めて書く。
その日、私という人間が生きたという証をきちんと残したくて書く。


私は、生きやすくなったのかもしれない。
書かなくなった、正確にいえば書かなくてもよくなったのだ。
どす黒い感情と上手に付き合えるようになったのかもしれない。

あるいはもしかしたら、どす黒い感情がそもそも生まれてこなくなったのかもしれない。
上手に日々をこなせるようになって、上手に人と過ごすことができるようになったのかもしれない。

そうしたら、地に足がついていない感じがするというか、今の自分が、1日前、1週間前、1ヶ月前の自分の延長線上にいる感じが、全くしなくなってしまった。日々、ぼーっとしながら生きている。世界に対する私の解像度が下がったのか、世界が色褪せて見える。そして何かの拍子に私がこの世界にいることに気づかされハッとして、急に出来事や人が出現して、私に対して襲いかかってきて、あたたかかったりどす黒い感情に浸ってしまう。でもそれは長続きしなくて、すぐまた忘れてしまう。

でもそういう時、急に出現した人に「話す」ということをさせてもらえているということに、最近気がついた。「話す」ができるのは、相手が「聞く」をしてくれるから。そうやって、誰かに助けてもらいながら、最近は日々を生きている。

「話す」をしたら、私が「書く」をしていたことを思い出した。そして、あれってやっぱりよかったのかなと思い出して、なんとなく「書く」をしたくなったのだ。

楽しい。自分の輪郭が顕になる。安心する。言葉にしていく、なっていく。後から読み返して、もしかしたら意味のわからない文かもしれない。それでも今度この文章を読む自分にこの文章を託したい。その時の自分がいいように解釈してくれればいい。
これからも「書く」をしたいと思った。



生まれて初めて行った野外フェスで食べた、タイ料理の麺。上にカタ焼きそばみたいのが乗っている。甘辛でパクチーが効いていて、最高に美味しかった。フェスも最高に楽しかった。

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