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先生やってみるかってようやくなった話

いろんな理由があって、学校の先生になるための勉強をしながら、学校の先生になりたくないな、と思っていた。

デンマークの大学に、半年間留学していた。
留学のプログラムの一つに教育実習があって、田舎の公立小学校に、約2ヶ月ほど実習に行っていた。
とは言っても、小学校3年生の教室の片隅で椅子に座り、じーっと教室を観察し続けるだけなのだが。授業は基本的にデンマーク語で何を言っているのかさっぱりわからないし、デンマークの教育だからなんかすごいのかも、と思って行ったけれど、実際は思っていたのと違くて期待しすぎていた、なんてこともあった。

でもようやく、先生になろう、なりたい、正確に言うと、子どもと関わりたい、と思った。

見学させてもらった最初の授業。歴史の授業だった。デンマークの歴史上のヴァイキング(大昔の海賊のようなもの)についてのクイズをやることになった。iPadや電子黒板でサーバーにアクセスするのだけど、それが接続トラブルか何かで、なかなか繋がらない。ずっと、ロード中の輪がぐるぐるしている。一度電源を落としても、輪はぐるぐるしている。そんなこんなで先生と子どもたちが試行錯誤しながら、授業時間の半分以上が過ぎた。
時間がもったいないし効率悪いな、とか、これはやる意味あるのか、これで教育してると言っていいのか、ていうか、この人たちにとって教育って何なんだ、と色々考えてしまった。でもそんなこと言えなくて、子どもと先生と一緒に「困ったねぇ」という顔をしていた。実際に私がその時できることは何もなかったので、本当に困ったなと思っていた。
 
算数の授業中、子どもたちは与えられた算数プリントを各々解いていた。算数くらいだったら教えられるだろ、と思って椅子から立った。机と机の間をぐるぐる回り、ペンが止まっている子のところでしゃがんで声をかける。
「きみ、なにかわからないところでもあるの。」
ぼんやりとした顔が私を見て、プリントに視線が移動する。ただ単純な、「5×6」の掛け算九九が解けないだけだった。
「ごかけるろく、はね、5を6回足せばいいんだよ。」


紙に6つの5を書き、その間を+で埋めていく。

とたん、はじけたように一瞬体をビクッとさせ、目は丸に、口はすぼめて、一瞬の一時停止が入り、ほんのちょっと笑顔がこぼれ、すぐに再生ボタンが押されてペンが動く。早くはないけれど、ペンが動き続ける。
私にとっては、単純な「2×5」の掛け算九九だった。しかもあんな下手な説明だったから、算数専門の先生には怒られてしまうかもしれない。
でもその子にとっては、まるでこの世界の大発見をしたようだった。その、世界の大発見の瞬間が、あの顔が、そしてその後の動き続けるペンが、本当に嬉しかった。
先生は説明してくれた、友達も理解している、でも自分はよくわからない、もしかしたら自分だけがわからないのかもしれない、自分だけ。そうした孤独が、そうじゃない、自分もわかる、みんなと一緒にいる、という感覚に変化して、安心の笑みがちょっぴり生まれる。それが、嬉しかった。
たぶん「5×6」の少年はそこまで考えていない。でももっとあの瞬間を味わいたい、あの顔を見たい、そう思った。
 

授業中だけでなく、休み時間は子どもたちと一緒に遊ぶ。もちろん遊ばずに職員室に戻ってもいいのだけど、子どもに外で遊ぼうと誘われるのでついていく。基本的にそういう誘いを、せっかく誘ってくれたから、と私は断ることができない。一緒になって遊ぶ教員はなかなかいないからだろうか、私が一緒に遊ぶと言うと、子どもたちは狂ったように喜ぶ。遊んでいる最中も、私の気を引こうと、私の名前をそれぞれが必死に呼ぶ。
「たっぴー!鬼ごっこしようよ」「たっぴー!プロレスしようよ」
(ちなみにデンマークでは先生と呼ばずに下の名前で呼んでくる)
嬉しい、一緒にこれしようよ、と言ってくれるのは嬉しい。
けど、断れない私は、全ての子どものそれ応えようとする。私自身、話しかけて無視されたら悲しい、誰も置いてきぼりにしたくない、と思うから、なるべく、全ての子どものそれに応えようとする。
そしてそれは結構大変で、休み時間が5分も経てばすぐ気疲れしてしまう。私は聖徳太子じゃないから、結局取りこぼした誰かの声がある。それにも少し、悲しくなる。
それでも私の気をひこうと、子どもたちは私の名前を呼ぶ。呼び続ける。次第に、彼らに名前を呼ばれ続けることが、少し怖くなっていった。もうやめて、呼ばないで、放っておうて。
わかっている。ここまでは良い、ここからはだめ、という、先生と子どもの間に、人と人の間に、何かしらの線があって、自分を守るためには、それを引くべきなことは。
でも、わからない。それが本当にあるのか、あるとしたらどこまでは良くて、どこからはだめなのか、その線があることを認めてしまったら、先生と子どもの違いを認めてしまったら、「あなたはやっちゃダメだけど私は先生だからやってもいい」と理不尽な校則なんかを押し付けてしまうのかもしれないことが。
子どもと関わっていると、他者との距離感も、曖昧に、そしてしっかりと、輪郭を帯びていく。
 


ある女の子がいた。ADHDと識字障害があるらしかった。
音楽の授業でこっそりと、好きな子がいるの、と私に打ち明けてくれた姿は微笑ましかったが、私の方は、コソコソ話が先生にばれて怒られるのではないかと内心ひやひやしていた。障害があるなんて、ちっとも気がつかなかった。
その子は字を読むのが得意ではなく、みんながやっている国語(デンマーク語)の、文法とか語彙のプリントを自力ではできない。iPadでプリントの写真を撮り、音声で読み上げさせて音声で理解する。そうして1問ずつ解いていた。わからないところは担任の先生に聞く。担任も気にしているらしく、その子にきちんと耳を傾けようとする。一通りプリントを解き終わって、「できた!先生!できた!」と叫ぶ。先生は笑顔になるわけでもなく、無視するわけでもなく、ただそっと、その子に向かって頷く。でもその目が、ほんとうに、ただただ、優しかった。他の子たちもプリントを解いているけれど、静かで、平和で、穏やかな時間が流れていた。
 
その子が、廊下で泣いていた。ほうっておけなくて、どうしたのと声をかける。
「みんなと仲良くしたいけど、できないの。私はADHDだから。すぐカッとなってパンチするの。そうするとみんな、男の子たちは私のことをバカにして、悪くいうの。」
言いながら、フーッと深呼吸をする。この子はこの子なりに、音楽の授業で好きな人を教えてくれたときのような温かい感情と、同時に、暗い感情、どうしようもなくて、自分でもどうしていいかわからなくて混乱してしまうような寂しさとか、悲しさを背負っているんだな、と思った。なんだか、やるせなくなった。
 


 
書き上げていてはキリがない。子どもと接してみて、思うことはたくさんある。
でも共通するのは、私よりも小さなあの存在が、私にはないものをたくさん秘めていて、尊いな、と思ったこと。子どものそばにいたい、そう思ったこと。
 
「子ども」という存在は不思議で、面白くて、楽しくて、ときに悲しくて、嫌気がさして、飽きなくて、素晴らしくて、尊敬する。
その表情や行動、そしてその存在自体が、記憶の回顧へと私を誘い、他者との距離を考えさせ、教育の意味、しいては生きる意味まで、問いになって私に迫ってくる。

教員じゃなくてもいい、子どもと接していられればそれでいい。
一瞬そう思った。でもやっぱり、教員がいい。担任がいい。
家族でもなく、友達でもなく、先輩でもなく、ある程度距離を置いた中で、全く距離のない近しい存在。
子どもの中で、子どもとは違う存在として、子どもと関わって子どもをもっと知りたい。
 

先生になろう、ようやく心がそう思えた。


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ちなみに写真は、お昼ご飯に小学校の食堂で売っているハムチーズサンドイッチ。


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