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「あーはいはい」に宿る、無関心と許容のバランス

「ムジナの庭」では何が起きているのか(後編)|鞍田愛希子
PLANETS/第二次惑星開発委員会
https://ch.nicovideo.jp/article/ar2123559

先日PLANETSの記事でムジナの庭という就労支援施設を運営されている方へのインタビュー記事を読んだ。
タイトルの「あーはいはい」に纏わる部分は有料部分になるのだが、端的に言うと、「ありのままでいい」という諭しを含んだものとは異なる軽い肯定が、その軽さゆえに居心地良い楽さを得られる、と言う感じの話だ。

日本語というのは面白いもので、名詞や形容詞を使うことなく心情を表現できる。

この「あーはいはい」もその一つだ。

あー(無関心さ)
はいはい(最低限の認知,許容)

の二つにこの場合は分けられると思う。
もちろん、この意味を持つのは普遍的な現象ではなく、文脈に依拠する。
しかし状況を仮定するなら、「家族と話すとき」や「ゴールデンタイムの国民的アニメ上で行われる会話」のような、ゆるやかな承認が発生している環境がわかりやすいだろう。

あー、はい、のどちらも反応を示す語に過ぎないが、そこには「ありのまま」とか「多様性」のようなハッキリとした単語とは異なる包摂性を持ち得る。

阿吽の呼吸などとはよく言ったもので、「あーはいはい」のコミュニケーションを成立させるためには、そこそこのハイコンテクストを要する。

だがそれこそが重要な点ではないだろうか。

互いに立ち止まり、コミュニティ(未満のゆるやかな繋がりでも構わない)の中で程々の無関心と許容を共存させる。

居てもいいが、居なくても問題ない。

そんな遊牧的な人間関係には明るい未来があると思う。

だがここで問題になるのは、Twitterなどのフロー的なタイムライン空間だ。

現状支配的なインターネットの言論(と呼べるかは怪しいが)空間の一つであるTwitter的なものには、遊牧性が感じられない。

そもそも遊牧性など求めていないのか、自身の中にある遊牧性にまだ気づいていないだけなのか。

さあどんな感じなんだろう。

君が排斥されない社会は良い社会だろうなあ

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