Aki YAHATA / HENKYO.studio

現代美術家.  美術や「人類の表現=生きること」の界隈について書いていきます.【web…

Aki YAHATA / HENKYO.studio

現代美術家.  美術や「人類の表現=生きること」の界隈について書いていきます.【web】http://www.yahataaki.asia/ 【studio info】https://www.instagram.com/yahata.aki/

最近の記事

[手食日記] 22.7.7 箸で食べれないと思った日

それは手食の頻度が高くなって1ヶ月くらい経過した7月初旬のこと。 久々に(!)箸で食事をとろうとしたら 体が食事を受け付けない感じになっていた! (ちなみに食べたのは写真のパッタイ) いつも触覚で確かめてから口に入れていたから、 まず触覚のinputがないのに食べるって状況に脳みそが大混乱! 「お、おい、お前どうやって食べる気やねん、そんなん無理やろ!」 って脳みそからかなり焦り気味のツッコミ入りまくり。 で、ですよね・・・となった。 それで、まず見た目からその柔ら

    • 手で食べる頻度が増えてから、何か食べ物のことを想起する時に、まず触覚が最前面に浮かぶようになった。手食圏の人もそうなんだろうか?そもそも、箸をメインに使っていたときはどうだっただろうか?まず視覚情報が思い出されて…前面に来るのは味覚や風味など口に入れた後のこと…かな?

      • 先日、友人が8,4,1歳の子供を連れてスタジオに遊びに来てくれ、子供達に「今日は手で食べようか!」というと上の二人が揃って「えーやだー、手汚れるじゃん。手にばい菌付いてるじゃん」と言い、私は衝撃だった。子供にとって手で食べるは楽しい遊びになると思っていたからだ。勉強になる。

        • 手は目でもあること、そして、手食は口に入れる前の、料理に触れた(混ぜるなど)段階から咀嚼が始まっていることに最近気がついた。口に入れる前に、おかずとご飯をしっかり均等に混ぜて、柔らかくしてから口に入れる。30回噛めと教育されるわけだが、手食ではそれが手で既に行われているんだな。

        [手食日記] 22.7.7 箸で食べれないと思った日

        • 手で食べる頻度が増えてから、何か食べ物のことを想起する時に、まず触覚が最前面に浮かぶようになった。手食圏の人もそうなんだろうか?そもそも、箸をメインに使っていたときはどうだっただろうか?まず視覚情報が思い出されて…前面に来るのは味覚や風味など口に入れた後のこと…かな?

        • 先日、友人が8,4,1歳の子供を連れてスタジオに遊びに来てくれ、子供達に「今日は手で食べようか!」というと上の二人が揃って「えーやだー、手汚れるじゃん。手にばい菌付いてるじゃん」と言い、私は衝撃だった。子供にとって手で食べるは楽しい遊びになると思っていたからだ。勉強になる。

        • 手は目でもあること、そして、手食は口に入れる前の、料理に触れた(混ぜるなど)段階から咀嚼が始まっていることに最近気がついた。口に入れる前に、おかずとご飯をしっかり均等に混ぜて、柔らかくしてから口に入れる。30回噛めと教育されるわけだが、手食ではそれが手で既に行われているんだな。

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          NepalのDedho

          神経美学の先生と、各国にあるらしい「美しい手食」を明らかにしようと話したのだが、そもそも「手食が美」であるし、人の体を使って食べることで生じる個別性が素敵であり、美しい手食を科学で明らかにすることは、「美ではない手食」を生み出してしまうように思えて躊躇してきた。よく考えよう。

          神経美学の先生と、各国にあるらしい「美しい手食」を明らかにしようと話したのだが、そもそも「手食が美」であるし、人の体を使って食べることで生じる個別性が素敵であり、美しい手食を科学で明らかにすることは、「美ではない手食」を生み出してしまうように思えて躊躇してきた。よく考えよう。

          [手食日記] 22.5.9

          手食は脳にやわらかい手食はいつもあたたかい手食のあとにふとしたときに香る指先の匂い食べて今日も生きているんだなあ コンビニ弁当を手食でオンライン共食する会を開催した。これは、味覚嗅覚障害の人の食体験の拡張として「手食」が有効かどうかを検証するプロジェクトの一環として実施したもの。やってみると、そこの検証は更にいくつかのプロセスが必要であることが分かったため、今回は言及しない。 とりあえず、「コンビニ弁当を手食したこと」が思いのほか衝撃的だったので日記にしておく。 参加者

          [手食日記] 22.5.9

          世界の手食 (スリランカ編)

          <今後、専門家や旅行者も交えて世界の手食をまとめたweb archiveを制作する予定です。本記事はそのメモとしてまとめたものです。> ※随時加筆編集中 【スリランカの手食方法】 南インドなどと同じように指の第二関節までを使い、指先で混ぜて口に運ぶ。 仏教徒が7割であり、左手が不浄という考え方はインドのヒンズー教と同様である様子。 ただいくつかの記事では右手を使うのは宗教的な理由ではなく利便性というような記載もありまだリサーチが必要。 <参考> 手食圏での子供の離乳食

          世界の手食 (スリランカ編)

          世界の手食 (ブータン編)

          <今後、専門家や旅行者も交えて世界の手食をまとめたweb archiveを制作する予定です。本記事はそのメモとしてまとめたものです。> ※随時加筆編集中 【ブータンの手食方法】 水で手を洗うのではなく、米を一握り取ってそれを手のひらで擦り手の汚れを取る。汚れた米の塊はその辺の犬などに投げ与える。 食べる前にご飯をひとつまみとって床に置きお供えする。お酒なども指先を濡らしてそれを床に垂らすことでお供えする。 右手を使ってご飯を丸め、それを副菜の汁や、汁物につけて食べる。

          世界の手食 (ブータン編)

          世界の手食 (ラオス編)

          <今後、専門家や旅行者も交えて世界の手食をまとめたweb archiveを制作する予定です。本記事はそのメモとしてまとめたものです。> ※随時加筆編集中 以下は、琵琶湖の魚でラオス料理を作っている小松亭タマサートさんから聴取した話と、論文などを参考文献としてまとめたものです。 基本的には主食がカオニャオというもち米であり、それと副菜を食す際に手食.うるち米も食すが少数. ※タイ東北(イーサン)料理とラオス料理はほぼ同じ. 【ラオスの手食方法】 手食に使う手は右手でも左手

          世界の手食 (ラオス編)

          世界の手食 (インドネシア編)

          <今後、専門家や旅行者も交えて世界の手食をまとめたweb archiveを制作する予定です。本記事はそのメモとしてまとめたものです。> ※随時加筆編集中 インドネシア人の友人とイスラム文化センターに聞き取りをした結果、インドネシアの友人から送られてきた以下の英語サイトが、多くの説明を網羅していそうだった。 【インドネシアの手食】 ムハンマドの教えに基づく。 右手で食べる。左手は不浄(左手は悪魔が飲んだり食べたりするともいわれる)。 右手の人差し指と中指の第二関節までを主に

          世界の手食 (インドネシア編)

          世界の手食 (インド編)

          <今後、専門家や旅行者も交えて世界の手食をまとめたweb archiveを制作する予定です。本記事はそのメモとしてまとめたものです。> ※随時加筆編集中 インドの手食はアーユルヴェーダの思想に基づいて行われているとも言われる。アーユルヴェーダでは五本の指に生命の5大要素があり、5本の指で手食することでそれらが一つに統合されて体のバランスが整うという考えらしい。この食べ方により、食事によって身体に栄養が摂取できるだけでなく、精神や魂の栄養にもなるという考えがあるようだ。

          世界の手食 (インド編)

          世界の手食 (セネガル編)

          <今後、専門家や旅行者も交えて世界の手食をまとめたweb archiveを制作する予定です。本記事はそのメモとしてまとめたものです。> ※随時加筆編集中 セネガル料理La Cuisine de Assy(星野未來さん)のセネガル料理を京都のSOCO KYOTO さんでいただいた。 星野さんのセネガル人のパートナーもいらっしゃったので、セネガルの手食事情について教えていただいた。まず、記事のタイトルとなっている写真は茶色が「チェレ(トウジンビエのクスクス)」で白色が「フォニ

          世界の手食 (セネガル編)

          [idea] 手食 野性 生命力

          ここしばらく、ずっと「手食」について考えている。 介護の現場でよくある話らしいが、衰弱して食事介助をしてもご飯を食べれなくなっていくご老人に、ある日握り飯を手に持たせたら、その日から食欲が増進し元気になった、ということが結構あるらしい。 この話を聞いてから「手食」は人間の潜在的な可能性のトリガーになりえて、消えかけた生命力を引き出す力があるような気がしていた。手で食べることで、赤ん坊のころのような原始的かつ本能的な感覚や生命力が湧き上がってくるのではないかというのが一つの

          [idea] 手食 野性 生命力

          [idea]表現と芸術の分子生物学 (映像・写真の粒子〜辺境の中心化)

          (序盤は思考の箇条書き・詩のようなもの) 「人類の表現=生きること」という前提 分子生物学的粒子と芸術の粒子=表現の粒子 辺境を中心化する技術としての「医術と芸術」 中心を辺境化する技術としての「芸術」 映像の粒子 私の中の粒子 モザイクな私 映像のノイズ 私の中のノイズ 視線の交わり 粒子のざわめき 全く別の時間 共通している粒子 私の粒子をあなたに。 編集で切り離されても 通じている時間 私の粒子も いつかは消える 粒子は時間の概念と共

          [idea]表現と芸術の分子生物学 (映像・写真の粒子〜辺境の中心化)

          [idea] 表現

          全ての人が表現をしている 当たり前のことだが、「表現」は決して芸術家に特権的なものではなくて、誰もがしていること、して良いことである。 私は人類がこれまで生きてきたこと、現代人が今を生きていることは個々の「表現」の集積に他ならないと思っている。 芸術家の表現と、表現が専門でない人の表現(=大部分の人類の生)の違いとは では、芸術家が表現のプロであるとしたら、そのプロフェッショナリズムは芸術家を名乗らない・名乗らなかった多くの表現者=人類のほとんどと何が違うのだろうか。その