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好きなものは好きと、自分のままで叫びたい

自分が好きなものは好きと、自分のままで叫びたい、叫んでいいよね、と思ってトップバナーとアイコンを変えてみた。

noteを知って、周りにnoteを使っている人も結構いること知り、自分でもnoteを書いてたけど、ふと振り返るとなんだか不完全燃焼。やり切っていない、くすぶっている気持ち。それは何度も書いて消してしまった記事や、下書きのまま残っている記事に表れている。

発信するなら一貫したテーマにした方が読んでくれる人も増えそうだから、テーマに合ってない記事はやめとこうかな…とか。仕事が楽しい話も、もやもやするときの話も、プライベートで気持ちが動いたあれこれも書きたいけど、どこまで書いていいものやら気を遣うなぁ、とか。色々考えた結果、表に出せなかった言葉たち。

完全匿名で書けば自分が所属するどんなコミュニティの人のことも気にせず好きに文章をとっ散らかすこともできるんだろうけど、なんだかそれもしっくりこない。いつからこんな感じになったんだろう?

私の家にパソコンがきて、インターネットというものを使い始めたのは2000年、小学校6年生の時。そこから友達と色とりどりの文字や背景を添えたEメールをやりとりして楽しみ、中学校時代にはいわゆる漫画やアニメ好きの人たちが集まる掲示板やチャットなんかも匿名で楽しんでいた。まだあの時代はインターネットはどこか怖さもある別の世界で、大半の人が匿名で楽しんでいたのではないかと思う。

2006年は招待制コミュニティのmixiに大ハマり。大学受験浪人してたくせに、ほぼ毎日なんてことのない日記を書き続けていた。(今は残念ながらIDとパスワードを忘れてしまっては入れないのだけど、いつかそっとタイムカプセルを覗くみたいに見れたらいいなと思う)

2007年に大学に入り、Twitterを楽しみ始めた。ここで初めて匿名ながら、全く関係のない人たちと交流を持ち始めたと思う。今までの匿名掲示板やチャットとも違う、140文字の向こうに見えるリアルな人たち。もちろん本名でやっている人はまだ多くなかった気がするけど、それでも数年前より本名で情報発信する人が増えてきた。鍵を付けていないTwitterのアカウントで何の気もなしに日々の想いや出来事を垂れ流し、共感してくれたり趣味の合う色々な人と交流し、就活時代にはTwitterを通して知り合った人もいた。このころが一番私にとってインターネットとリアルの境目がなかった気がする。

2011年社会人になるのと同時にTwitterに鍵をかけて、むやみやたらに思ったことを垂れ流すことは避けるようになった。Facebookももちろん鍵付き。社会人のマナーとして、SNSでの炎上は避けなくてはいけない。手っ取り早い方法が、インターネットの中でも鍵をつけて身近なコミュニティの人とのつながりだけに区切ること、そこに加えてさらに、むやみやたらに情報を発信しないことだった。

そんな風にネット界隈と距離を置いている間に、Facebookを発端としたSNSはどんどん発展し続け、Instagramやnote、Twitterは個人の方のブランディングに欠かせないものになっていた。ネット上で名前を出して発信していくのが少数派ではない世界。むしろそこから世界が広がっていく人が沢山いる。どれを覗いても、自分が好きだと思っていることに対して自分よりも熱量があったり、お金を費やしている人がいる。自分がフッと思ったことをさらに考えに考え抜いて、面白い記事を書いている人がいる。日々自分の心が動いてちょろっとnoteを書き出してみても、そんな周囲の人の記事を見て、こんな風には書けないなぁと自分の気持ちを文章にする手がとまることが何度もあった。…でもそれって、実はすごくもったいないのでは?

好きのレベルなんて結局誰にも図れない。オタクの沼が深いように、仕事ができる人の上にはさらに上がいるように、結局世の中で相対的にみたら、きっと誰かより好きレベルは浅かったり低くなる。でも反対に、好きレベルがとても深くて高くみえるケースだってある。

だったらそんな周囲の評価を気にしてるよりも、自分はこれが好きと叫んだほうが、自分で自分の思いや考えも再認識できるし、好き同士で新たな繋がりも生まれるかもしれない。そっちのほうが素敵じゃないかな。

ということで2021年はもっと、自分が好きなものは好きと、わりとプライベートとパブリックを半開きな状態でnote書いていきたいと思います。
もっと自由に書くを楽しめる年になりますように。

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