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コール・バック、コール

人は、人への変わらぬ思いを胸に生きていく。
若き日に出会った、男と、その友の男と、女。長い年月を隔てた後の偶然の再会。呼び起こされるあの時の思いと、今胸に抱く思いが絡み合う。しかしその時運命はすでに動き出していた。男と、その友の男と、女の、これからに向かって。 偶然と運命が交錯する刹那に生まれた、男と女の秘められた真実の物語「コール・バック、コール」。 人は、人への変わらぬ思いを胸に生きていく。すべては移ろい流れ行く、この時の中で。


        1

 店はそう混んではいなかった。いらっしゃいませと一斉にかかる明るい声と、見渡してほどよい広さの店内に感じる清潔感に好感が持てた。小ぎれいな白木のカウンターには年配の人が一人、席を二つ置いて中年と若い女性のカップルが一組。少し奥まった方にある座敷には、三十代くらいのサラリーマン三人の一組が座っていた。客の雰囲気もおだやかで落ち着いている。いい店なのだろう。年が明けて新年仕事始めの飲み会なども一段落ついて、この店にもいつもの日常が戻ってきたといったところだろうか。
 待ち合わせの時間、七時には少し早かった。予約の確認をすると、ふくよかな女将があちらにとカウンターの一番奥の方に手を向けた。そこには二人分の箸がおかれ席が作られていた。まずはビールを頼んで、つまみは待ち人が来てからにすることにした。
 出張で来る東京。昔、自分はここにいた。二十年前、東京の私立大学を卒業して就職した先は、業界では中堅クラスの印刷会社だった。仕事に対してはこれといった理想もこだわりもなく、どこでも何でもとにかく入れるところというくらいにしか考えていなかった。だから雇用条件など少しも気にかけず、面倒なので最初に内定をくれたこの会社に決めてしまった。ところが東京の会社で社会人一年生をおくると、入社二年目に降りた辞令は、「結城信吾、福岡勤務を命ず」というものだった。勤務地が福岡・・・。転勤ということか?人は頭に無かった事が起きるといきなり思考が止まり、どうしようもなくなるものだと実感した。働かない頭で少しばかり考えて出した結果は、成り行きに任せるということだった。仕事や住まいが東京でなくてはという理由もさしてない。福岡なんてところは、こんなきっかけでもなければ一生関わりのない土地で終わってしまう、だから、これは縁だ、神のお導きだと考えることにした。東京が一番自分に合っていると思っていたことなどすぐにどうでもよくなるいい加減な性格から出た考え方が、良くも悪くも自分らしいと思った。その後経ってしまった二十年余りの歳月で、住めば都、身も心もまったくの福岡人になった自分が今、東京に来ている。

 この店で待ち合わせた相手は、親友の岡田英人だった。岡田とは大学の同級で、バスケット同好会でも一緒だった。出身は自分が埼玉県で向こうは富山県だったが、お互い一浪で、高校時代にやっていたバスケットも県大会二回戦くらいという、実力も同じ程度のものだった。ただ岡田はキャプテンでチームを引っ張る立場だったのに対し、自分は練習嫌いで試合でもあてにならないただの選手という違いがあった。岡田とは出会ってすぐに気が合い、それから大学生活のほとんどをともにおくる仲になった。
 岡田は今、中堅商社の営業課長として海外との取引をする部署で忙しく働いている。大学時代から自分は思っていた。明るく真っ直ぐで人付き合いのいいこの男は、会社に入れば性格的に向いている営業職につくだろう。そしてその持ち前のリーダーシップを発揮して、しっかり出世もしていくだろうと。岡田はまさにこちらが予想した通りの人生を、一歩一歩着実に歩んでいた。これからもその道を踏み外すことはないだろう。
 久し振りに会おうといってきたのは岡田の方からだった。年明け最初の東京出張が決まった直後にタイミング良く岡田からの電話があり、今夜この場所で会う運びとなった。その時岡田には去年、といっても先月の十二月に自分が東京へ来ていたことは言わなかった。
ビールが空いたのでもう一本頼もうとした時、店の戸がガラッと開いた。暖簾をくぐって顔を出した岡田が、遅れてすまんと手を上げて入ってきた。

久し振りに会う男同士のぎこちなさもビール二本で楽になり、お互いの近況報告が一通り終わる頃には熱燗二本が空いていた。岡田はあの大学時代と何も変わらない調子で、俺はこう思う、と結論をきっぱり言ってから、それはつまりと具体的な説明を述べていく。岡田は今の仕事について語った。
「なあ、結城。これからの時代は食料とエネルギー、これに尽きる。うちの会社は食料でいく。食料はとにかくグローバル化だと言われているが、みんな日本のポテンシャルを見過ごしている。国の農業政策も無策に等しいしな。そこで、だ。俺は・・・」
岡田の会社に対する提言には、仕事に対する真っ直ぐな姿勢と何より熱い思いが込められていた。そんな岡田の話を聞きながらあらためて思えてくるのは、自分には仕事に対してそれ程のものはない、ということだった。もちろん自分にだって会社に対する意見や提案の一つや二つない訳じゃない。しかし最後にはいつもこう思ってしまう。会社ってのは、売上が上がることしか目指していない。そんな会社にいて仕事することは自分の人生の全てじゃない。仕事は生きるため生活するための一つの手段じゃないか。人生には、他にももっともっとやることがあるんだと。初めて会ってから二十年を越す歳月が経った今、自分は岡田との違いをあらためて思った。
お前も変わらないな、と熱弁振るう岡田にそう言ってやると、岡田は今までとはまったく違う調子で一人息子の話をし出した。
「うちの航太がさ・・・」
小学校の三年の息子が、最近友人関係で悩んでいるらしいという。
「いじめじゃないらしい。だけどわからないだろ、子どもの言うことは」
自分も岡田の言葉に同調した。
「そうだな。小学生にもなると、本音をいわなくなる」
岡田はその相談に乗るために何とか早く帰る日を作ろうとしていると言った。ふと気づいた。自分と岡田の違いはここにもあった。自分には子どもがいない。守るべき子どもがいるのといないのとでは、これこそ絶対的な違いだ。
 注ぎ終えて空になった徳利を振って酒を頼んだ。ふと横を見ると、今まで喋っていた岡田が口を閉じて、おもむろに両腕を組みカウンターに乗せた。
「どうした。子どものことが心配か」
「いや、そうじゃない」
岡田はカウンターの向こうで手を動かす料理人に目をやり、しばらく黙った。
「実はなあ、結城・・・」
あらたまった口調で岡田がゆっくりと口を開いた。そして岡田は酒をぐいと飲み、空いた猪口に目を落とした。
    
    
    
        2
 
 山本朝美に初めて会ったのは、大学に入った五月の連休明けのある日、昼時の学食で岡田に紹介された時だった。背は小柄で小さな顔に大きな黒のセルフレームの眼鏡、長い髪を後ろで一つに束ねていた。外見の印象からは取り立てて感じるものはなかった。岡田が朝美の横に立って、親指を向けて話し出す。
「こいつとは中学から高校とそれもクラスまでずっと一緒で、大学まで別に相談した訳でもなく同じになってしまったんだ。学部だけ違うけど」
岡田は朝美の顔を見ずに続ける。
「もうずっと近くで長い時間過ごして来たんで、二人の関係に恋愛感情はまったくない。男と女を越えた、分け隔てなしの腐れ縁だ」
朝美は岡田の言葉に受け答えもせず、こちらを見ていた。
「よろしく」
朝美から挨拶の一言があった。あまりにそっけなかったが、そこにいやな感じは何もなかった。
  
それから数日後、朝美は岡田と自分がバスケット同好会で練習をしている体育館に来た。俺たちの練習ぶりを見に来ると岡田は言っていたが、目を向けると朝美は体育館の入り口のところに座って、文庫本をずっと読んでいた。練習が終わり他の連中が引けた後、岡田がボールを朝美に向かって転がした。
「久しぶりに、どうかな」
朝美は手でとめたボールをしばらく見て、おもむろに文庫本を床に置き靴を脱いで立った。その場で四、五回ボールを床につき感触を確かめると、朝美は軽くドリブルで進み始めた。そしてスリーポイントのラインの前で軽くジャンプしシュートを放った。ボールは弧を描ききれいにリングの真ん中を通って落ちた。
「ナイスシュート! 落ちてないねえ、中学時代の腕は」
朝美も中学ではバスケット部だったという。
「でも、特技とまでは言えないね」
朝美はそう言いながら入り口に戻った。

練習が終わって、帰りに三人で近くの喫茶店に寄った。岡田がアイスコーヒーにストローを差しながら朝美に言った。
「結城は埼玉なんだ。まあ東京に近いだけで何もないところだ」
「そう?埼玉より富山の方が何もないと思うけど」
朝美が軽く岡田に言い返した。岡田が身体を乗り出す。
「何を言う。富山にはそびえたつ山々と、いい海があるじゃないか」
朝美が岡田を見て、こちらに目配せしながら言った。
「自然に囲まれちゃって文化が届かないの、富山には。だからこんな男が上京してきちゃう。」
「そうか、富山も大変なんだね」
岡田を見ながら、自分も朝美に冗談を返した。
「なんだ、いきなり二人で組んで、俺をバカにすんのか!」
一人だけ不利になった岡田を、朝美と自分は顔を見合わせ笑った。

それから三人の付き合いは始まった。男同士の付き合いに女が一人加わるとどこかうまくいかなそうな気がしたが、この二男一女の関係は妙にウマが合うようだった。それは第一印象ではまったく分らなかった、朝美の性格によるところが大きいと思った。 朝美は考え方がさばけていて、それでいて気を回すことができる性格の持ち主だった。いつも控えめで、自分を主張するより聞き役に回ろうとした。だからといって意見がないわけではなく、言う時は柔らかい口調で、でもその主旨ははっきりとしていた。朝美は女だが、とてもいいやつだった。大学一年の時があっという間に過ぎて行く中で、事あるごとに、あるいは何事もなくても、岡田と朝美と自分はいつも一緒だった。


        3
 
 翌年の夏。北陸本線を走る列車「はくたか」の窓から目線を上げると、青空にくっきりとそびえる山々、立山連峰が見える。富山のことはまったく知らないと言ったら、わが故郷へ来て山を仰ぎ見るかという岡田の誘いに乗って二泊三日の予定でここ富山にやって来た。
 駅で列車を降り改札を出る。向こうで岡田が手を上げた。
「よく来た!」
駅を出て顔を上げると、山々はまるで圧倒的な壁のようだった。
「ちょっと富山城へ行こう。夕飯まで時間があるからな」
岡田が元気に前を歩いていく。しかし、この空に壁の景色の中で毎日を過ごすというのはいったいどういう感じなのだろうと思った。
 富山城は市内の城址公園にある郷土博物館だった。戦後復興のシンボルとして天守閣が建築されたという。知っておいた方がいいと、着いたとたん岡田に城の歴史の勉強をさせられた。
 富山城は室町時代に築城。その後一向一揆が起きたり、上杉、武田の戦いが城をめぐって行われた。天正十二年(1585年)織田信長の家臣佐々成政が入城したが、豊臣秀吉の征討を受ける。江戸時代に入って前田利長が居城、大火が起きたり廃城となったりした後、寛永十六年(1639年)富山藩初代藩主前田利次が入城、それから十三代にわたって、前田家が富山城に居城していた。明治時代になり富山城は廃城解体されている。
 館内の解説や資料を見てまわって、佐々という珍しい名字だけは頭に残りそうだと思った。
 
 宿泊先は市内にある岡田の家だった。岡田の両親、お父さんお母さんはとても気さくで、息子の大学の友達が富山までよく来てくれたと歓待してくれた。遠慮しないで食べてという言葉と一緒に出された夕食は、マグロ、白エビ、岩ガキと、テーブルに乗せきれないくらいの夏の海の幸だった。“きときと”という言葉は新鮮という意味だと教わりながら、腹一杯の限界を越え食べ続け吐きそうなほど苦しかったが、そんな顔もできずほんとうに辛かった。
二日目の昼、岡田が今夜は外で食うからとお母さんに告げ、二人で家を出た。岡田が用意した二台の自転車にそれぞれ乗って走り出す。どこへ行くと岡田に聞くと、駅だと言う。何をしにと聞こうとした時、岡田が言った。
「朝美が帰ってくるから、迎えに行くぞ」
岡田は朝美が帰ってくる予定を聞いていたらしい。駅で待っていると、大きなバッグを肩にした朝美が改札を出てきた。二人がいることに朝美が気づいた。
「どうしてここにいるの」
朝美の呆れ顔に、岡田は、大まじめに言った。
「今夜の居酒屋の場所を伝えるためだ」
じゃあ夜にと言って朝美は駅を出た。朝美だって両親と久しぶりに・・・と言いかけると、岡田が両手をぱんと叩いた。
「これでよし。さあ、これからすごいものを見せてやる」
岡田は自信満々にそう言いながら、販売機のところへいって二人分の切符を買った。
 それから二人は電車に乗った。まずは高岡まで行って、そこで氷見線に乗り換えた。車中岡田は富山について語った。越中という国は701年大宝律令で定められたとか、江戸時代に入って富山藩になり、薬売りは藩生き残りをかけた起死回生の商売だったとか、北前船は運送業ではなく船主自身が商品を売買したとか・・・。まるで歴史の先生のような岡田の話を聞いた。
 四十分くらいで着いた駅は、雨晴駅といった。あめはらし、珍しい名前だと思いながら駅を出て、岡田の先導でしばらく歩く。
「ここだ」
岡田が足をとめた。岡田の向いた方に目をやると、手前は深い青の海、日本海。そしてその海越しの遥か向こうに、空中に浮かぶ山並みがあった。立山連峰!青空にくっきりと連なる稜線が、あまりに美しい・・・。
「どうだ、すごいだろう!ここは雨晴海岸っていうんだ」
海と山が一遍にあるこの眺めを、人はまさに“絶景”と呼ぶのだろう。岡田が自慢げに続ける。
「源義経が奥州へ行く道中、雨に降られ雨宿りしたところだ。それで、雨、晴らし」
なぜここに義経がと聞こうとしたが、岡田はさらに続けた。
「な、いいだろ、富山!名前の通り山が富んでるんだ」
なるほど、ト・ヤマ、と目の前の絶景を見ながら素直に思った。岡田が山並みを指して言う。
「立山、剣岳、こっちが毛勝、あっちが黒部五郎。みんな二千五百から三千メートルだ。今度来たらあの山に行こう!黒部ダム見て、ロープウェイで登って、渓谷鉄道で・・・」
岡田は歴史の先生からまるで観光ガイドになっていた。しかし今度富山に来たら、あの青空に浮かぶ圧倒的な山々の上にほんとうに自分はいるのだろうか。そんなことはまるで想像もつかなかった。

 ここ富山も夏の陽は長く、夕暮れ時が続いていた。居酒屋では、いつもの東京と同じく岡田と朝美が並び対面に自分が座る定位置に着いて、ビールを飲んでいた。岡田の手はジョッキから離れず、飲むピッチがいつもより早かった。
「いやー雨晴海岸、よかったー!やっぱりすばらしいね、富山は。なあ、結城」
何度となく岡田に感動の共有を求められ、なんとか違うあらわし様はないかと言葉をひねり出した。
「生まれて初めて裏日本に来て、今まで見たこともないすごい景色を見せてもらった」
岡田がジョッキをぐいとあおって言った。
「しかし、なんでこっちをウラ日本っていうかね。太平洋がオモテって、いつからだ?長い長い日本の歴史の中でほんのちょい前だろう。武士が出てきたあたりか。こっちは海を挟んで中国だよ。中国の歴史を知ってるか?四千年の歴史だよ。それに向かい合って来たのはこっちだよ。なにがウラだって!」
「ウラでもオモテでもいいじゃない。同じ日本なんだから」
朝美のつっこみがさらに岡田の舌の回りを良くする。
「なんだと朝美!富山の女が、故郷をウラって言われていいのか!」
「富山で生まれたことはたしかだけど、富山、いのち!ってことはない」
「俺もいいよ、ウラオモテ、どっちでも」
自分も朝美に同調すると、岡田が呆れた顔をする。
「結城まで。お前だって埼玉の男だろう。ダ埼玉といわれようが、誇りってものがあるだろう!」
誇りという言葉に、自分は少し頭を使った言葉を返した。
「富山の目の前の海を、中国やロシアは日本海って言わないらしいな」
「なにい、キサマこの海が日本海じゃないっていうのか!」
「キサマって・・・」
誇りとかキサマとか、岡田は飲みのせいで何か違うモードに入っていた。
「郷土愛って」
朝美が言葉をはさんだ。
「郷土愛の、愛する郷土の範囲って、どの辺までだと思う?おらが村、わが県、やっぱ甲子園の県代表とか、Jリーグの地元チームとか応援する感じが、郷土愛?」
問いかけに自分は頷いた。
「その辺じゃないか、やっぱり」
朝美は話を続けた。
「県からもうちょっと範囲を広げると、次は北陸。でも北陸を愛するって言うかな。石川、福井も一緒に?ま、いいか。そしてその次はいよいよ国だね。われらが日本!ああ、これは郷土愛っていうか愛国心ね。じゃあさ、わがアジアってある?アジアはあるかな。なんか人種的括りになるね。その上は、もう世界っていうか、わたしたちの地球?あ、宇宙人が来襲したら地球人はみんなで一つになって地球を守らないと」
「どこまで広がるんだ」
もういい頃合いかと軽く言葉を挟んだが、朝美は話をさらに展開した。
「逆に、愛の最も近い対象は?」
「それは、やっぱり・・・」
こちらが答えようとするのをさえぎり、朝美が自分で答える。
「愛する人、人生の伴侶!いや、自分の子ども!・・・いや、ひょっとして、自分かな。自分愛ってある?」
「わかった、わかった、朝美」
岡田はあきらめたように言った。
「お前の話の方がたしかに深い。深いけど、酔いたいじゃん、俺達。」
岡田はそう言いながら立ち上がり、朝美の背中に足をぶつけながらトイレに行った。
「英人もすっかり東京の人だね。酔いたい、じゃん、だって!」
朝美が岡田の口調の真似をして笑い出した。自分も、酔いたいじゃん、と真似して二人で一緒になって笑った。岡田が帰ってきてもその笑いは続いたが、岡田はかまわずまた話をし出した。
 その時、ふと小さな寂しさのようなものが胸をよぎった。いつもと同じように岡田と朝美とする居酒屋でのばか話。たしかにここは東京ではなく二人の故郷富山なのだが、酔いのすきまにぽつりと生まれたこの感情は、自分がビジターというだけのものではなかった。それは岡田と朝美の仲にあった。岡田と朝美には、お互い何もかまわず平気でいられる、長い付き合いの中でできた暗黙の信頼がある。朝美と初めて会った時、岡田が二人の仲を男と女を越えた分け隔てなしの腐れ縁、と言っていたものだ。それが付き合いの中のほんのちょっとしたところであらわれていた。思い切り馬鹿にしたり、ただ体をぶつけたり、話を突然無視したり。それは互いの勝手なタイミングで。自分は、二人とはまだ出会ってから一年と少し。二人の仲と同じようにはなれない。長い年月の上にあるものと同じものを、いきなり何かで埋めたり、すぐに作り上げたりすることはできない。岡田と朝美のつながりに、微妙な気後れと少しの羨ましさを感じている自分がいた。
 居酒屋で飲みまくった三人は、半月輝く星空の下を自転車で岡田と朝美の通った中学に乗り付けた。
「おう、懐かしいな、わが中学!」
岡田が声を上げる。フェンス越しの校庭には、街灯の明かりを受けたバスケットのゴールが見えた。岡田は目の前のフェンスを見上げ、よし、と言ってよじ登り、中へ降りていった。
「平気だよ。こい結城!朝美も!」
バスケットのゴールの下まで岡田が走った。自分と朝美は顔を見合わせ、しょうがないなあと言いながらフェンスを乗り越え校庭へ降りた。岡田が何をするのかと思ったら、いきなりピボットターンをしてシュートの格好をした。
「バスケやるぞ!エア・バスケだ!スリーオンスリー、攻撃から。いくぞ!」
ないボールをあるかのように、いない敵をいるかのように、岡田はパスをよこした。のってやるしかないか、と自分もボールがあるつもりで受け、パスを返した。
「やるんだよ、朝美!それ!」
まったくもう、という顔をしながら朝美も見えないボールを受けパスを出す。ゲームは始まった。岡田が相手をかわしながら朝美にパス、朝美がすぐさま岡田に返し、岡田ドリブルで切り込んでシュート!朝美ドリブルで回り込み岡田にパス、岡田、朝美に返すと見せかける、そこへ走り込んた自分がボールをもらいシュート!朝美のパスを岡田へ、岡田ドリブルしてそのままレイアップシュート、しかし相手のガードに阻まれた!リバウンドを自分が取り朝美へ戻す。朝美はすぐさま岡田へパス、岡田身体をターンさせながらシュート!なぜかボールがリングに吸い込まれたように見えてきた。強敵とのゲームは続いた。三人とも気分はNBAの一流プレイヤーだったが、酔いが回って息切れが激しかった。
「最後だ!終了間際点差は2点ビハインド。最後のチャンスだ、まわせ結城、俺が決める!」
そう言って朝美のパスを受けた岡田がシュートに切り込む。しかし入らない。
「リバウンド、結城!」
自分はこぼれたボールをジャンプして抱え込み、向こうで手を広げる朝美へパスを送った。
「朝美、シュート!」
岡田の声に、朝美はその場からシュートを放った。ボールは弧を描きリングへ・・・。
「決まった、スリーポイント!2点差を土壇場で逆転、優勝だ!」
三人はその場にへたり込んだ。その時、暗がりの向こうから怒鳴る声が校庭に響いた。
「こらあ、誰だ!」
声のした方から、こちらを照らす懐中電灯の明かりがちらちらした。用務員か。三人は慌てて起き上がりフェンスに向かって思いっきり走った。そしてフェンスをすごい勢いでよじ登りそのまま外へ飛び降りた。地面に転がった三人は自転車に飛び乗り必死でその場を逃げた。
「試合終了寸前の、劇的なシュートだ!えらいぞ、朝美!やったぞ、結城!」
叫ぶ岡田に朝美が声を上げた。
「ばっかじゃないの!」
三人は自転車を思い切り漕ぎ、夏の夜の中学校を後にした。
 川岸にたどり着いた三人は自転車から飛び降りて草むらに倒れこんだ。そして息もうまくつけずにみんなで笑った。
岡田がむせながら、話そうとする。
「この川が、ゴホッ、神通川といって・・・、ゴホゴホッ」
「わかったわかった、英人!もういいよ!」
朝美が言って、またみんなで笑った。
 仰向けになって見上げた夜空にはくっきりとした半月と満天の星があった。ここは富山なんだ、とあらためて自分は思った。今まで縁もゆかりもなかった裏日本の街富山に今自分はいる。そして自分の両脇に寝転んでいる岡田と朝美を見た。去年の春までまったく知らなかった二人。その二人の間に、今自分がいる。どくどくと心臓の鼓動が鳴り止まない中、これは現実なのにどこか違う夢を見ているような感覚が、酔った頭の中をめぐった。


        4
 
 大学三年の秋、冷たい風が吹くある日。経済情報論の始業時間に遅れてあわてて大教室に飛び込むと、人は数人しかいなかった。左奥の席に岡田が座っていた。
「休講だ。運がよかったな」
その一言を聞いて胸をなでおろしていると、岡田が言った。
「しかし、来年は大学四年。卒業すると社会人だ。就職しないとな。」
遅刻が不問となって大いに喜んでいるところに、岡田が切り出したのは次元の違う話、就職のことだった。岡田は絶対商社に行くと意気込んでいた。
「世界を股にかける商売だからな、商社は。そこに身を投じて自分の可能性を試す」
岡田がこちらに向き直って言った。
「結城、お前はどうなんだ。」
「ん、俺か?俺は・・・、別にいいよ。」
「何言ってんだ。別にって、何かの仕事につかなきゃ食っていけないだろう。」
「職にはつくよ、何かの。でもどんな仕事につきたいとか、どうしてもこの仕事でなくてはだめというのがないんだ」
「そんな考えでいたらなあ、お前。この先、いい人生をおくれないぞ」
岡田の言葉に冗談のニュアンスはなかった。そんな考えでいたら?そうだろうか。自分のやるべき仕事がみつからないとこの先、いい人生が送れないのだろうか。その通りだとは思えなかった。やりたい事があって、それに向かってまっしぐらという人もいるだろうが、皆が皆そうだとは言えないだろう。仕事に熱くなる事が人生を充実させる最高の手段、とも言い切れないだろう。いやそうだとしても、人生の今のこの時期にやりたい事が必ず見つかっているとは限らないだろう・・・。岡田に向かってきつい言葉が口をつく。
「結構だ。お前が言う、いい人生がおくれなくても、俺はいい」
岡田の目が険しくなった。険悪な空気を散らすように扉が開いた。顔を出したのは朝美だった。
「なんだ、休講なんでしょ。そこで二人だけで勉強しょうっていうの。コーヒー飲みにいこうよ」
「なんで文学部がこの教室に来るんだ。俺は行かない」
岡田はそう言ってリュックを肩にかけ大教室を出て行った。
 「どうしたの」
喫茶店でコーヒーを飲みながら朝美が岡田とのことを聞いてきた。
「岡田が、急に就職の話をしだすからさ」
「就職ね。結城はどうすんの」
「だからわかんないって」
「だからって・・・。英人は根が真面目だから、結城にも求めちゃうんだよ」
「朝美は」
「わたし?わたしはまだ漠然としてるけど・・・。何か、ものを作る仕事につきたい」
「朝美は映画好きだから、やっぱりそっちの関係だろう」
「別にこだわっていないよ」
朝美は映画通だったが、岡田と自分には映画の話をしたことがなかった。見た映画を聞いても、二人とも知らないと思うと返すだけだし、どんな好みでどういう見方をするのかと聞いても、人それぞれだからと言うだけだった。たまにハリウッドの超大作を見るくらいの二人とは話をしてもしょうがないと朝美は思っているのだろう。
 喫茶店に岡田が入ってきた。こちらを見るなり気まずそうにしながら、いきなりトイレへ行こうとする。
「さあ、また二人揃ったところでそろそろ行くわ、用事あるから」
朝美が声を上げ、マフラーを首に巻きながらお先にという合図をした。そして朝美は顔を近づけてきて言った。
「ゆっくりと、急がないでいくのが似合ってるよ、結城には」
ドアが閉まり、朝美の言葉だけがそこに残った。考えてもいなかったこれから先の仕事のこと。俺は岡田じゃない。だからあいつのようには考えられないし、ましてそう出来るはずもない。急がないでいく・・・。自分のペースで考えて進めていけばいいと朝美は言ってくれたのだろう。
岡田が何事もなかったように席に座る。
「ん、朝美は?帰っちゃったの。そう、帰るなら帰るって・・・。まあいいや、コーヒー飲んでいくか。そうだ結城、朝美は好きな男いないのかな」
岡田が教室での話はなかったかのように、唐突な質問をしてきた。
「さあな、でもこんな男二人が四六時中くっついていれば、できる男もできないかもな」
「ばかやろう、こんないい男二人もそばにいて悪いわけないだろう。ま、俺の方はただの腐れ縁だけどな。」
でも、本当のところ、朝美はどうなのだろうか。付き合っている男がいるのだろうか。いれば三人はよく会っているのだから分りそうなものだ。いやその前に、朝美のことだから好きな男がいるならいるで言ってくるだろう。だからいるはずはないと、あらためて思った。
その時、ふと思いもしなかった事が頭をよぎった。ひょっとして朝美は、岡田か自分のどちらかを・・・。そんなことはあり得るはずがなかった。たしかにお互い好きでなければこうも一緒にいるはずもないのだが、岡田とは腐れ縁だし、自分はといえば朝美に恋愛感情を持ったことはなかった。気心知れた、男女を越えたいい関係。親友。朝美だってそう思っている。これも間違いはない。
男二人の話はいつの間にか好きなアイドルのことになっていった。喫茶店の客は自分たち二人だけになり、外の寒さから隔たれた居心地のいい空間に、おだやかな昼下がりの時間がゆっくりと過ぎていった。

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 いつもの喫茶店で、首元のネクタイをゆるめた。コーヒーを一口飲んで生き返った気がした。会社面接の帰り、大学の就職課に寄ってここへ着いた。社会人になったらこの堅苦しいスーツを毎日着なきゃいけないのかと思いながら、後二ヶ月で卒業だというのに就職先はまだ決まっていなかった。正月気分などまったくない一月の日々が過ぎる。岡田は去年の秋に行く先を決めていた。志望した有名商社は軒並み駄目だったが、あいつの持ち前の頑張りで、まだ知名度は低いがこれからという商社に採用が決まり、今は郷里富山に帰省している。朝美は自分と一緒でまだ就職先が決まっていないと言っていたが、年が明けてまだ顔を見ていなかった。
今就職課で目に留めた会社の募集要項を見る。それは印刷の会社だった。従来の書籍やポスター、商品ラベルなどの印刷物だけでなく、新技術開発とともに、クリエイティビティで次の時代に新しい印刷の領域を創造する。全国に支社を展開・・・。
「そこにすれば」
顔を上げるとコートを手にしたグレーのスーツ姿の朝美がいた。
「ここが俺を採ってくれるのか?」
目の前に座る朝美に聞く。
「だまされたと思って、受けてみたら」
長い髪を後ろで束ね、いつもの黒いフレームの眼鏡をはずして薄く化粧をしている朝美はちょっとした美人に見えた。コーヒーを一口飲んだ朝美が言った。
「わたしの就職活動は終わった」
「あきらめたのか」
「いや、決めました」
朝美は口元を少し上げて微笑んだ。
朝美の就職先は小規模な広告代理店で、クライアントは住宅メーカーがメインだという。扱う広告はCMやポスターはなく、販売促進用の細かなツールが多いらしい。朝美はそこで営業のアシスタントから始めると言った。控えめで地味なタイプの朝美が、営業は向いていないのではと思ったが、いやならすぐに辞めるだろうとすぐに思い返した。朝美も仕事は仕事、まずはとにかくやってみると言った。その言葉に朝美の努力を惜しまないいつもの姿勢が伝わってきた。
人や社会に対してまっとうでありたいと、面接では大きな声で言ったと朝美は笑い、こちらに顔を近づけた。
「あさってからちょっと富山に帰らないといけない。私の就職祝いと結城の前祝いに、飲みに行こう」
 
 知っているいい店はないかと朝美が聞くので、自分の地元、都立大駅から少しのところにあるビストロに来た。就職祝いに旨いワインをと思いながら、朝美に気づかれないように財布の中身を確認した。
 朝美が珍しく映画の話をする。デビッドなんとかという監督の映画で、主人公が日常からあるきっかけで闇の世界へ入り込んでしまう内容らしいが、自分には理解のできるものではなかった。飲み食いしながらなんとか質問しようとすると、分からなくていい、それがこの映画の狙いだからと朝美が言った。朝美がワイングラスを持ち、こちらをじっと見た。
「結城、けっこう似合ってるね、スーツにネクタイ」
朝美のいきなりの意外な言葉に面食らう。
「え?なんだ、映画の話じゃないのか」
「いい感じ、だよ」
「いい感じって、そんなわけないだろ。まだ社会人になれないのにネクタイして・・・」
「結城はね、急がないで。急がないでゆっくり生きていけば必ずいい人生が送れる」
「そう思ってくれるのは、朝美だけだな」
「大事なんだよ、人を思うっていうことは」
人を思う・・・。一瞬、朝美の言葉に自分は戸惑った。それは人のことを思うという一般論としてなのか、それとも人というのはこの自分のことで、朝美は結城信吾という一人の男を思ってくれているのか・・・。いや、それでもおかしい話ではない。朝美とはそれほどの仲だ。朝美は親友だ。だからこうして、二人でいるのだから。
 ワインを一本空けて店を出た。駅へ向かい歩き出すと朝美は気持ちが悪くなったといい、膝に手をついた。どうにもつらそうなので、家で休んでいくかと聞くと、朝美はそうさせてと言った。タクシーに朝美を乗せ申し訳ないくらい近い距離を走ってもらい、アパートに着く。ドアの鍵を開け、腰に手を回して支えていた朝美をドアの中へ入れた。ドアを閉めると同時に、朝美が振り向きその場にしっかり立った。そして手をこちらの首に回して顔を近づけてきた。キスだった。全身がカッとなった。どうしたんだと思いながら、そうだったのかと思った。酔った振り。でもどうして・・・。自分の腕は朝美を抱きしめていた。後は、こうなった訳や理由やそんな何かを考える時間などあるはずもなかった。
 
 朝美を送って部屋へ戻ってきてから、頭の中では終わらない自問自答が繰り返された。二人で飲もうと言った朝美。自分とこうなった朝美。朝美は、どうしてこの自分と・・・。いや、考えたところでどうなるものでもない。これはもう起きてしまったことだ・・・。空になったタバコの箱を握りつぶすと感触があり、中に残っていた一本を取り出して火をつける。吐き出した白い煙が六畳の狭い部屋の中をどんよりと漂った。

        6
 
 夏が始まった七月の暑い夜に、岡田から電話が入った。
「酒でも飲まなけりゃやってられないぞ。働き始めて四ヶ月、仕事っていうのはほんとに大変だ!お前も忙しいだろうが顔を見せてそっちの話を聞かせろ。朝美にも連絡してあるから」
就職して初めて、三人で会うことになる飲み会。朝美とも、あれ以来・・・。卒業の前に三人で飲むはずだったが、朝美は三月いっぱい富山に帰らなければいけなくなったと言って会は流れていた。今度はこちらが都合がつかないと言って会うのをやめようと思った。しかし避け続けていれば、この事は済むのかと思い直して、岡田に会う日取りを聞いた。
それから二週間後の飲み会当日、仕事も片付き定時に会社を出て店に着いたのは約束の七時ちょうどだった。一番乗りは自分だった。店は岡田が予約した気安い居酒屋で、あちこちで生ビールの乾杯が始まっていた。酒は頼まず枝豆をつまみ、本を読みながら二人を待った。しかし待ち合わせの時間を二十分過ぎても二人は来なかった。店員がコードレス電話を持ってきた。出ると岡田だった。すまん、仕事が終わりそうにない、朝美とやってくれと言って電話を切った。朝美と二人で・・・。どうすればいいんだ。様々な想像が頭に浮かぶ。あの時のことを、朝美はどう思っているのか。あれ以来朝美は、何を思っているのか。周りの席で陽気な声が飛び交う中、ただ一人複雑な気持ちの男が、一人の女を待って五十分が経った。しかし朝美は来なかった。朝美も仕事で忙しいのだろう、だから連絡が出来ないのだろう。そう思うことにして、店員に二名の客のキャンセルを告げ、待っている間に頼んだ枝豆一皿分の勘定を払って店を出た。

飲み会が流れた後日、岡田と会った。結城に謝っておいてと、朝美から岡田に電話があったという。朝美も仕事で忙しいのだろう、また連絡を取って都合のいい時に会おうと二人で話した。しかしそれ以降、自分も岡田も仕事の忙しさはさらに増し、互いに連絡を取ることすら忘れていった。そしてその間に、朝美は音信不通になっていた。
その年末、自分は会社から来年度の福岡転勤の内示を受けた。

        7

それは、二十年後の東京でのことだった。

 十一月も最後の週、空は一面灰色の雲が覆い、地上の東京は車と人でぎっしり詰まって澱んでいた。福岡から東京への出張は、しばらく離れて忘れていた東京をいつも再認識する機会となった。確かに福岡も九州一の大都市だが、しかしそれは東京の比ではない。東京は人やモノがすべてケタはずれにあふれている。顕微鏡で見る何かの菌のように絶えずうごめき増殖している気配がして、まともな感覚でいられるところではない。学生時代にこの東京が自分に合っていると感じていたのは一体何だったのだろうか。転勤でしょうがなく行った福岡だったが、住んでみるととても暮らしやすい街だった。あの時会社をやめずに流れにまかせたことが、後の長い年月を積み重ねることになる良い結果につながったのだと思った。

新宿にある本社での出張業務を終えて時計を見ると五時。今日は週末の金曜で、この後は最終便で福岡へ帰るもよし、このまま一泊していくもよしというところだった。久しぶりに岡田に連絡を取ってみようと思った。急に決まった出張で仕事がまともな時間に終わる保証はなかったので、事前の連絡は取っていなかった。本社の人たちの飲みの誘いは今夜福岡へ帰ることにして断り外へ出た。歩きながら携帯でまずは岡田の会社へ電話を入れた。岡田は外回りで出ていますが何かありましたらという女性の声が返ってきた。自分から電話があったとなると岡田は気を回してしまうだろうと思い、いや結構ですとだけ言って携帯を切った。岡田とはまたの機会にして、今夜はこのまま福岡へ帰ることにした。
 新宿駅は退社時のそれも週末の人の行き交いですごい混雑だった。発券機の前にできた行列に並んだ末やっと品川までの切符を手にして改札を通ったが、通路もまた何故こんなにここに人がいるのかと、一瞬訳が分らなくなるくらいに人また人で溢れ返っていた。誰かが後ろから当ってきた。こちらの身体を押し退けるように前へと進んでいくスーツの中年。肩から下げた大きなバッグが身体にぶつかる。前から来る小太りの赤いスーツがはちきれそうな年配の女史。目の前にいるこちらの存在を無視しているのか、前を見ずにおかまいなしに突き進んでくる。派手な化粧と衣装の女が前を横切り、引きずっているキャリーバッグに危うく足が引っかかりそうになる。お互いに人間であることも忘れてしまいそうな、ただひたすら自分勝手に行き交う都会の群集・・・。
 ホームも人で一杯だった。電車を待って並んでいる人の列と、移動している人の流れの境目が渾然として分らなかった。とにかくホームの中程へ行くようにした。この辺でと列の後ろにつき、ふうと一息ついて何気なく横の方に目をやった。向こうの乗車位置に並ぶ手前の列の、斜め後ろの方にいるベージュのトレンチコートの小柄な女性に目が止まった。似ている・・・。似ているだけか。まさか。いや・・・!その時、記憶の奥底にあった名前が口をついて出た。
「朝美!」
突然の声に振り向いたその女性は、目で声の先を追った。目が合った瞬間、彼女は呆気に取られ口を開けた。
「・・・結城!?」
今、大東京の真ん中で信じられない偶然が起きた。朝美との、再会・・・!
お互い驚きに戸惑ったまま、自分と朝美はホームに入って来た電車の同じ車両に、前のドアと後ろのドアに分かれた列からそれぞれ乗った。動き出した車両の中、満員の乗客越しに二人は口パクと指でやり取りをした。原宿を過ぎて次、渋谷で降りるか?いや次の次、恵比寿で、という朝美の指示が理解できた。不思議だった。長い年月の間の不在を飛び越えて、今そこにいきなり、朝美がいる。

恵比寿駅から程近いところにある洒落たチャイニーズの店で、自分と朝美は食事をとった。大学を卒業後就職して半年が過ぎた頃、朝美は音信不通になった。そして翌年自分は福岡へ転勤。それから二人には会えず終いの二十年というあまりに長い年月が過ぎていた。
ビールを飲み一息ついて、朝美が最初にあの時はいろいろあってと詫びてきた。こうして会えたんだからいいじゃないかと言って自分が先に福岡での仕事や生活の話をした。会社の仕事は得意先回りで、受注を仕切る役目。その得意先で出会った女性と三十で結婚したが、子どもはできず七年目に離婚、以来独り身の生活をおくっている。しかし福岡は人が温かくてほんとうにいい街だと。
次は朝美が話し出す。仕事は横浜の不動産会社で企画営業の手伝いをしている。店舗関係に強いといわれている会社だが、最近の不景気で売り上げが減少傾向にあり新しい展開を模索中という。不景気はどこでも一緒で理由にならないから、ここで何を考えるかが仕事と朝美は言い、荷は重すぎるけどどうにかしないとね、出来なければおしまいと付け加えた。あの時と変わらない朝美の独特のニュアンスが伝わってきた。物事の見極めが早い、努力は惜しまない、責任感はあるが使命感は持たない・・・。
朝美は住んでいるのも横浜と言った。そして自分と同じバツイチだとも。そのことについてはそれ以上語らなかった。今目の前にいる朝美は、学生時代のかまわない感じからとてもきれいな女性になっていた。当時長く束ねられていた髪はあごの下で切りそろえられていて、いつもの黒いフレームの眼鏡は外され、そこには柔らかい眼差しがあった。目立ちはしないが整った顔立ちに変わりはなく、歳は四十を過ぎてもおばさんという言葉はまったく当てはまらない。向き合っているこちらの思いを知ってか知らずか、朝美が少し小首を傾けて言った。
「わたし、変わった?」
「全然」
「大人の女、なんだけど」
「そうだな」
「結城も変わらないね」
「中身が大人になってないからな」
「子どもがいないからだよ」
「そうか。結婚したけど離婚して、ただの男に戻っただけか」
「いいの、結城はそれでいい。ゆっくり生きていけば、必ずいい人生が送れる」
「昔も聞いた気がする。どうして俺はスピード出して生きていっちゃいけないんだ?」
「人にはね、それぞれ生きるリズムっていうのがあるの。結城はのんびり道草したり、わざわざ遠回りしたり、時には後戻りしたりして、いろんな事感じながら生きていくのが似合ってる。それが結城の生きるリズム。無理に急いだりすると、そのリズムが狂っちゃうでしょう」
「生きるリズム・・・か。じゃ、朝美の生きるリズムは?」
「私の?私のリズムは・・・、狂ってるの」
「狂ってる?・・・何言っとっと」
こちらの困った顔と博多弁に朝美が笑い出した。つられて自分も笑ってしまった。
 この後は食べることも一段落し、ここにいない岡田を肴に、飲みと笑いの時が過ぎていった。大学卒業を前にしたあの一夜のことには、互いに少しも触れることはなかった。
奇跡の再会なんだからどこかで飲み直そうと朝美が言った。そうするにもまず泊まるところの確保をと思い、電話をしたがなかなか見つからなかった。週末ということもあって安くて気軽なビジネスホテルはどこも満室だった。ここから近いのは値の張るPホテルで決めかねていると、朝美が肩を叩いてPホテルのバーで飲めば移動やチェックインが一度に済むと言った。この際お金で合理性を得ようと思いそうすることにした。こういう時朝美は一番いい方法を見つけるのが早く、あの頃も自分は朝美の的確な指示によく従っていたのを思い出した。

 Pホテルのバーは週末を楽しむ客で混んでいた。カウンターに案内され、朝美を左にして座る。チェックインを済ませたので、心置きなく飲める楽な気分でバーテンに酒をオーダーする。朝美はカクテルをオーダーしながら言った。
「雰囲気が好きだから、バーでは時々飲んでる」
「横浜の大人の女と博多の田舎者の違いがここで出たな。俺は相変わらず居酒屋だ」
そう返すと、朝美は微笑みながら首を横に振った。
「映画は見ているのか」
「前ほどじゃないけど」
映画館上映を見逃して最近DVDで見たという、夢と現実が錯綜する難解な映画の話を朝美がする。
「デビッド、なんとかって・・・」
うろ覚えの監督の名前が突然頭に上り、言おうとすると、朝美が驚いた。
「デビッド・リンチ。よく知ってるね」
「あの時たしかその監督の映画の話をしていたことを思い出した」
「そうだった?これもその監督の映画だよ」
あの時。急にあの時のことが頭をめぐった。二十年前のこと。触れずにいたことに自分が先に触れてしまった。朝美はあの時のことを、どう思っているのか・・・。
お互い二杯目のロックとカクテルを飲み始め酔いが回ってきたと感じたところで、自分が今ここに朝美といる不思議について話をする。
「岡田とは会えずに、こうして偶然朝美と会えたというのは、何か、あるのかな」
朝美が、手を添えていたグラスの中に視線を落として黙った。沈黙は長かった。
「何か、あるのかな」
朝美の口がやっと開いた。しかしそれはこちらの言葉を繰り返したものだった。また沈黙が続いた。楽しく話していたさっきまでの朝美とどこか感じが違っていた。
「どうした?」
朝美は首を横に振るだけだった。視線はグラスの中に落としたままだった。何か悪いことでも言っただろうか。自分の言った言葉を、もう一度頭の中で繰り返す。
(岡田とは会えずに、こうして偶然朝美と会えたというのは、)
岡田・・・?ひょっとして朝美は岡田と何かあったのだろうか。
「朝美、何か話したいことがあるなら」
岡田のことをそれとなく聞こうと、朝美に話しかけた。すると朝美がグラスからやっと顔を上げた。
「結城は、今、彼女いるの?」
まったく予想もしなかった言葉が朝美の口からもれた。顔はこちらに向けられないままだった。一瞬、自分の頭の中が混乱した。今、彼女いるの?彼女がいたらどうなんだ。いなかったら、どうなんだ。この偶然の再会に何か関係があるのか。そう、岡田とは何かあったのか。質問の意味を知るためにもとりあえず朝美の問いに答えることにした。そして朝美にも同じことを問い返す。
「いや、いない。ピンとくるのが、いないんだ。朝美は?」
自分に今彼女がいないのは本当だった。朝美の返答を待ったが、また沈黙が続いた。朝美は再び視線を落とした。閉じていた唇が少し開いたが、言葉が出てきたのは一呼吸後だった。それはこちらの問い返しに対する答えではなかった。
「また、会えるかな」
頭の中を、何かが駆け巡った。問いを無視した朝美の言葉の後ろに隠れていた意味が立ち上がってくる。自分の勝手な思いようか。頭の中の混乱が続く。
「何言ってるんだ。ちょっと離れてるけど、会おうと思えば・・・またすぐ会える」
「そうだね・・・。でも今、会っているこの瞬間は、今、終わってしまう・・・」
突然、胸の奥深くで大きな鼓動が鳴った。朝美の言葉の後ろに隠れている意味。それは、あの時の二人がそのまま二十年の時を飛び越え偶然の再会を果たして、ここに寄り添うこと・・・。自分はこの瞬間が、ただの幻のように消え去ってはいけないと思った。
 
 トレンチコートを羽織った朝美が部屋から出ていった。最初から一人で泊まる予定だった部屋なのにこうやってたった一人でいることが、何か悪い事でもしているような気がした。頭の中で自問自答が繰り返される。こうなったことは偶然だった。そして自然だった。二人ともこの瞬間に、お互い正直になっただけのことだ。以前からこうしたかったわけでも、ただ魔が差したわけでもない、偶然の再会から生まれた、ここにしかない時間だった。
 じゃあ、と言いながらバッグを持った朝美の顔が浮んだ。朝美は取り出したガムを口に入れ、包み紙を手で丸めて屑篭めがけてシュートの態勢をとった。放たれた包み紙の玉は屑かごの縁にあたり床に落ちた。
「スリーポイント失敗!」
そう言いながら笑った朝美は、包み紙の玉を拾い屑かごへ捨てた。


翌年、九州が入梅したと予報があった六月のある日、朝美から携帯に留守電が入っていた。声が聞きたかっただけだと。すぐにコールバックしたが通じず、また東京に行く時にでも会えればとまたかけ直すことはしなかった。
二十年ぶりの偶然の再会。あんなことが本当に起きるのか。いまだに信じられない出来事だった。しかしそれ以降、朝美とは何か展開することがあるわけでもなく、二人は福岡と横浜というそれぞれの居場所で今まで通りの生活をおくっている。朝美との関係はただこのままで、これからは時折会うことになるのだろうと、朝美からの着信履歴を見ながら思った。
        8

一年も終わりに近づいた十二月の初旬、社内打ち合わせを終えデスクに戻ると、置いていた携帯にメール着信があった。朝美だった。関東方面はとても寒く、風邪をひいてしまったという書き出しから、次の上京の機会はとあった。年内最後の出張が今決まったばかりで、このタイミングに驚きながら返信し、二週間後の十七日に朝美と会うこととなった。

約束の夜、仕事を強引に終わらせ本社の連中に頭を下げながら会社を出た。クリスマスムード一色の街を走り、表参道に向かう地下鉄に乗ったが七時の待ち合わせには間に合いそうになかった。駅に着き改札を飛び出し階段を走って登り地上へ出た。二十分遅れ。通りにイルミネーションが輝き、待ち合わせ場所には女性が何人も立っていた。息を整えながら朝美を探す。携帯で話している茶色い髪に赤いダッフルコートの女性、襟袖が毛皮の黒いコートにブランドの大きな紙袋を肩にかけている女性、一人はキャメル、もう一人はグリーンのコートで笑って話をしている二人の女性・・・。注意深く見回すが朝美は見つからない。その時、後姿の小柄な女性に目がとまった。あのベージュのトレンチコートは、去年偶然の再会をした時の・・・、朝美だと思った。歩いていって声をかける。女性が振り向いた。しかしその顔は朝美ではなく、若い女性だった。すみません、と咄嗟に声が出た。女性は謝った自分の顔をまっすぐ見てきた。その目に戸惑いを覚えながら、人違いでした、すみませんともう一度謝った。
しばらく周りの人を見渡しながらその場に立っていたが、朝美の姿は見えなかった。ポケットの携帯が鳴る。朝美からの電話だった。マスク越しなのか声が小さくて聞きづらかったが、それは仕事で向かうことが出来なくなったという連絡だった。
 それが朝美からの最後の電話だった。

        9
 
 店に明るく響くおまちどうさまの声とともに、徳利が岡田の横に置かれた。岡田は猪口に酒を注ぎ徳利を置いて、ゆっくりと口を開いた。
「朝美が、死んだ」
岡田の言葉は短くはっきりしていた。
「・・・朝美が!?」
「朝美だ。山本朝美だ」
頭の中が白く飛んだ。岡田の言葉は聞こえたが、何を言っているのかわからなかった。
「ガンだった・・・。入院した時にはもう・・・」
岡田の言葉は間違いでも何でもなかった。それは紛れもない事実をあらわしていた。
朝美が、死んだ。
「朝美は意識不明になる前に、俺に知らせるように頼んでいたそうだ」
岡田の言葉を理解しようとしながら自分は朝美の顔を思い出していた。偶然再会したあの夜の朝美の顔を。じゃあ、と言って出ていった朝美の、最後の顔を。
「朝美に、会ったのか」
岡田が聞いてきた。咄嗟に口を突いて出た言葉は本当のことではなかった。
「いや、会っていない」
「そうか。俺も就職して以来だ。それが二十年越しで・・・、去年の夏、朝美に会った」
岡田の言葉に自分の耳を疑った。去年の夏、朝美は、岡田に会っていた・・・?
岡田は、会社に突然朝美から電話があって、と話し始めた。
「どうしても会いたくなってかけてみたというんだ。その夜朝美と二昔振りの再会をして、大いに飲んだ。朝美は横浜の不動産会社に勤めていると言った。結婚はと聞くと今は一人と答えた。今は、と言うから、結婚していたことがあるのだろう。それ以上は聞かなかった。昔話になり、就職した一年目、なぜ突然連絡が取れなくなったのかと聞いた。朝美は謝りながら、あの時は実家でいろいろあってとそれ以上詳しいことを言わなかった。朝美は今忙しいので一区切りついたらあの時以来会っていない結城も呼んで、三人で一緒に飲もうと言っていた。結城には自分から連絡すると言って、お前の携帯番号を聞いてきた」
朝美は本当のことを岡田に話してはいなかった。岡田は話を続ける。
「どうやら朝美は一年以上前から自分がガンだという事を知っていたらしい。でもその時、俺にはそんなことは全然・・・」
一年以上前からガンだと知っていた?朝美はそのことを言わずに、岡田に会っていたのか。自分が偶然再会したあの時も、朝美はすでに自分の体が病に冒されていることを知っていたのか。知っていながらこの自分と・・・。無性にタバコが吸いたくなった。随分前に禁煙して以来そんな気は起きたことがなかった。衝動を紛らわすには酒を飲むしかなかった。徳利を掴みながらあの時朝美と話したことが急に頭の中を駆け巡った。
(私の?私のリズムは、狂ったリズム)
(何か、あるのかな)
(また、会えるかな)
(今、会っているこの瞬間は、今、終わってしまう・・・)
何か、悲しさとも悔しさともつかない言い様のない感情が心を覆った。あの時どうして、分かってやれなかったんだ。あの時どうして、自分は朝美のことを分かってやることが出来なかったんだ・・・。
「命日は、十二月一日だ」
岡田の言葉が頭の中に響いた。朝美が亡くなった日が、十二月一日?そんなはずはない。朝美と待ち合わせをしたのは、十七日。その時すでに朝美は亡くなっていた?ではあの時電話でやりとりした相手は・・・。自分はいったい、誰と・・・。
「朝美に頼まれ、連絡してきた人がいる」
すぐ横にいる男が内心狼狽していることなど知らずに、岡田は言った。
「朝美は母になっていた。連絡してきたのは、朝美の娘さんだった」
「娘さん・・・?」
「朝美は、自分が死んだら岡田という人に伝えてと、娘さんに頼んだらしい。朝美が俺たちと音信不通になったのが、二十二年前。その娘さんに歳を聞いた。今二十一歳になると言っていた。名前は真希」
突然、あの待ち合わせの時の記憶がよみがえる。ベージュのトレンチコートの後姿。朝美だと思って近づいて、振り向いたのは若い女性。あの女性が、朝美の・・・。
「その娘さんが、俺たちに会いたいと言っている」
岡田が猪口をぐいとあおった。
人生に起こる偶然は、運命を動かすのだろうか。それとも偶然それ自体も、運命に組み込まれていることなのだろうか。朝美に会いたいと思っても朝美と会うことはもう出来ない。しかし朝美は、自分の娘という存在に、何かを伝えた・・・。
これから先、自分は一生自分の心の中だけに留めて置かなければならない真実を抱えた。朝美との、あの偶然の再会を。そして朝美の娘との、運命の出会いをーー。

 店の外へ出るとちらちらと雪が舞っていた。岡田がぼそりと言った。
「朝美は、試合終了寸前に、劇的なスリーポイントを打ったんだ」

岡田と別れ、しばらく通りをただ歩いた。だいぶ酔いがまわっていた。しかし、どうしても確かめたかった。立ち止まり、携帯を取り出す。そしてリストから山本朝美を選び、番号を押した。相手は出ず、メッセージを入れる。
「結城です・・・」
切ってポケットへ入れようとすると、携帯が鳴った。コールバック。
山本朝美。
表示を見て、キーを押した。わずかな沈黙の後、声が聞こえた。
「結城信吾さん、ですね。あの時のご無礼、お許しください・・・。お顔を、拝見したくて・・・」
朝美の娘、真希の言葉が返ってきた。顔を上げるとちらちら雪が落ちてくる。言葉が出ない。瞑った目頭に熱いものがこみ上げ、頬を伝った。

        10
 
 二月、自分は岡田と富山に向かった。岡田は予定外の帰省、自分にとっては二十二年ぶり、二度目の富山だった。東京から上越新幹線「とき」で行き、越後湯沢で北陸本線「はくたか」に乗り継ぐ。あの夏も自分はこの路線に乗り、見上げればあの立山連峰があった。今、列車は当時から進化し走行の所要時間も短くなっていた。そしてさらにその時間を驚くほど縮める北陸新幹線がもうすぐ開通する。窓外、目線を上げると、冬の白さを全身にまとった立山連峰があらわれた。あの時とはまた違う感動が胸を打つ。
横の岡田が窓外を見上げ話し出す。
「はくたか伝説というのがある。飛鳥時代、越中国司佐伯有若の息子有頼というのがいた。
有頼は父が大事に飼っていたはくたかを無断で持ち出し狩りに出た。山を飛ぶはくたかのもとに熊があらわれ、有頼は熊を矢で射る。はくたかと傷を負った熊を追いかけると、美しい山上の高原に出た。熊が逃げ込んだ岩屋に有頼が入ると、そこにはなんと阿弥陀如来がいらっしゃった!阿弥陀如来は畏れおののく有頼に、お前を導いたのは私だとおっしゃった。そしてこの立山を霊山として開けとお告げになった。以来佐伯有頼は立山開山に力を尽くした。そういう伝説だ」
すべては神仏のお導き。岡田の話を聞いて、自分もその神仏に導かれて、再びこの立山を仰ぎ見ることになったのかもしれないと思った。
 
 列車が駅に着く。あの夏の日自分を出迎えたのは岡田だった。次の日岡田と自分は朝美を迎えた。あれから二十年余りの歳月を経た今、二人を駅で出迎えてくれたのは、朝美の娘、真希だった。白いダウンを着た真希は、自分と岡田に、はじめましてと挨拶をした。自分と真希は初めて会うのではない。ただそれは朝美との待ち合わせで、人違いの他人としての一瞬の認識でしかなかったが、真希の方は違うだろう。しかし真希の方にも、あの待ち合わせですでに自分と会っていることを感じさせるような表情はなかった。あらためて見る真希は、背は小柄だったが顔は朝美にあまり似ていなかった。目が大きくはっきりした印象の顔立ちだった。
「今から行くところは母の叔母の実家です。ご足労かけます」
真希はそう言って、自分と岡田をタクシー乗り場へと案内した。見上げると山々は、真っ白な壁として冷たい冬の空にあった。
 タクシーが市内を流れる神通川に沿って走る。途中、路面電車を見かける。セントラムといって五年くらい前から走っている市内環状線です、と助手席に座った真希が少し首をこちらに傾けて言い、おもむろに話し始めた。
「私の祖母、母の母は若い頃亡くなっていて・・・」
「お母さんの、若い頃とは?」
岡田が聞いた。
「母が社会人として働き始めた年と聞いています。祖母を亡くして以来、母は何かある時は祖母の妹にお世話になっていました」
真希の話に、自分は卒業前の朝美との一夜を思い出した。たしかあの時朝美は富山に帰った。就職して朝美が音信不通になったのが夏。あの頃朝美はお母さんの病気のことで・・・。
 タクシーは二十分ほど走ったところで、二階建ての小さな一軒家に着いた。岡田と自分を玄関の上がりで出迎えた朝美の叔母妙子はとても小柄で、真っ白い髪を束ねた頭を深々と下げた。通された奥の間に仏壇が置かれていた。そこには、こちらを見て少し微笑んでいる朝美の写真があった。それは去年再会した時と髪型も化粧も同じ朝美だった。
先に岡田が線香を上げ、朝美に手を合わせた。煙がゆらりと立ちのぼった。次に自分が手を合わせ、目を瞑った。部屋には物音ひとつしないしんと静まりかえった時が流れた。
最後に別れる時、じゃあ、と言った朝美の顔が浮かんだ。取り出したガムを口に入れ、包み紙を手で丸めて屑かごめがけてシュートの態勢をとる朝美。放たれた包み紙の玉は、屑かごの縁に当たり床に落ちた。
「スリーポイント、失敗!」
朝美の笑顔がドアの向こうに消える・・・。
 不意に感情が動いた。朝美が死んだと聞いた時に起きた感情が。どうして分かってやれなかったんだ。卒業前のあの時、そして偶然の再会の時、朝美が抱えていたどうしようもない不安を、自分はどうして分かってやれなかったんだ。自分を責める悔いと悲しみの思いが堰を切ったように胸の奥から溢れ出る。

真希がお茶を入れながら、自分と岡田に伝えておきたいことがあると話し出す。
「二十二年前、母は仕事で出会ったある人と結婚しました。その人は病で余命宣告をされていました。でも母はそのことを知った上でその人と結婚をしたのです。そして母は私を産みました。そして間もなく、その人は亡くなりました。その人が私の父です。母は命尽きる前に初めて、お父さんのことを私に教えてくれました」
 真希と妙子は家の外まで出て、タクシーに乗り込む自分と岡田を見送ってくれた。岡田は、何かあれば相談に乗るから何でも言ってください、と真希に言った。真希はありがとうございますと、小さく微笑んで頭を下げた。
 
 帰りのタクシーで岡田が話す。
「朝美のところは母子家庭だった。お前が富山に来た夏、朝美の母親は病気だった。朝美はそのことをお前に言わないようにと俺に言った。働き始めた年、三人の飲み会が流れた後に連絡を取った時、朝美は、実家がばたついていてと言っていた」
自分は岡田の話を聞くだけだった。
「朝美のお母さんはその時亡くなったのだろう。そしてその後、仕事で出会って一緒になった人も、亡くなる運命にあった。きっと朝美はその人を放っておけなかったんだ。母を亡くした上に、出会った人までただ亡くすことはできない。そう考えて朝美は人生の決断をしたんだと、俺は思う」
言葉がなかった。自分は朝美のことを何も知らなかった。何も知らずに朝美の人生に関わっていた。そして何も知らないまま、朝美は自分の前からいなくなってしまった・・・。
 真希は何故この自分と会ったのだろう。そして何故自分と会ったことを岡田に言わないのだろう。朝美からは、いったい何を伝えられていたのか・・・。真希は朝美と自分との間にあったことを知っているのかもしれない。これから自分には、真希と向き合って朝美のことを話す時が来るのだろうか。
「しかし、朝美の娘さんに会うとはな。俺にも子どもがいるんだから、ありえない事じゃないが」
ありえない事じゃない。岡田にとってはそうかもしれない。しかし自分にとっては、まさにありえない事だった。
「俺たちは、ちょうどあの真希ちゃんの年頃に、一緒にいたんだ」
岡田はそう言って、座っていたシートから体をぐいと前に起こした。
「運転手さん、ちょっと行先を変更してください」
 
 タクシーが着いたのは呉羽山展望台というところだった。市街を一望しながらその向こうに立山連峰を臨むことができる市内の名所だという。この眺めがまた最高と言いながら、岡田は思い切り胸を張って息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「お前もやってみろ。冬の澄み切った空気、清々しいぞ!」
言われた通り深呼吸をしてみる。冷たい空気が胸に入った。
「どうだ、いいだろう、冬の富山も!」
「岡田、俺は・・・」
言葉を探していると、岡田が唐突に切り出す。
「俺と朝美には秘密にしていることがある」
秘密・・・?心がぐらりと揺れた。岡田は続けた。
「中学の時、朝美がバスケの大会で優勝したトロフィーを、朝美と俺はふざけていて壊してしまった。事が発覚して校長が身に覚えのあるものは正直に名乗り出るようにとお布令を出したが、俺たちは出頭しなかった。事件は迷宮入り。これが誰も知らない俺と朝美の秘密だ。朝美とお前には何かなかったのか」
「いや、そんなのは、ないよ」
秘密の中身を聞いて、動揺は安堵に変わった。胸の奥に鈍い痛みを残して。
「結城、あの山並みを見ろ」
山を見た。しばらく山を見続けた。連なる白い稜線が、様々な起伏を見せながら空をよぎっている。大自然の描き出す景色には、底知れぬ力強さと澄み切った清らかさがあった。辺りには風もなく冷たい空気がしんとしている。静かな時が過ぎていく。山々と向き合う、静かな時が過ぎていく・・・。
 岡田が口を開いた。
「人は自分に起きる色んなことで揺れ動くが、山は何事にも動じない。山は動じないで、すべてを見守っているんだ」
その通りだと思った。山は動じない。そしてすべてを、見守っている。
「朝美は、いいやつだった」
岡田の言葉に朝美の顔が浮かんだ。
 
 取り出したガムを口に入れ、包み紙を手で丸めて屑かごめがけてシュートの態勢をとる朝美。放たれた包み紙の玉は、屑かごの縁に当たり床に落ちた。
「スリーポイント、失敗!」
朝美の笑顔がドアの向こうに消える。
「朝美!」
出ていった朝美を大声で呼んだ。朝美の声は返ってこなかった。
 
 青い冬空にひろがる立山連峰をあらためて見る。その山々は、白く気高い凛とした美しさをたたえていた。

                               (終)

                                                                                                     

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