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【短編小説】パンドラの箱を開けなければ人間じゃない

よくあるマッドサイエンティストの独白(中二感マシマシ)

登場人物の心情について直接的に説明しすぎるなぁ……やっぱ三人称視点で書いた方がいいのかね🤔
いまいち不完全燃焼なので、そのうち書き直すかもしれない


 人工子宮の中で育まれた私たちの愛し子は、証拠品として「押収」されたそうだ。
 私たちが行ったことは、この国の法律上禁忌にあたるらしい。いや、この国に限らず、多くの人間は私たちの行いを「生命倫理にもとるもの」として糾弾するのだろう。
 法律は没人格的に見えて、実のところ「何が正しいことなのか」という極めて人間的な問いから逃れられないというわけだ。不干渉という名の多様性など欺瞞にすぎないのだと、私はとうの昔に知ってしまった。

 さて、ダラダラと愚痴をこぼしてきたが、この辺りで私たちが「犯した罪」とやらについて話さねばなるまい。
 とはいえ、何のことはない。私たちは人工多能性幹細胞と人工子宮を用いて、同性間──男同士で子どもを作った。それだけのことである。
 それだけのことなのだが、現在こうして「生物本来のあり方に反する」だなどといって裁かれそうになっている。先に述べた通り、我が子は連れていかれた。三浦──私の恋人にして共犯者は、私とは別のところに勾留されているそうだ。

 私たちが行ったことは、確かにホモ・サピエンス・サピエンス「本来の」生殖のあり方への挑戦であり、生物学上の禁忌を侵すことだったかもしれない。
 だが、それは「悪い」ことだったのか? 私に言わせれば、禁忌を侵すのが悪だというのなら、人類などみな極悪人である。

 人類の歴史とは侵犯の歴史だ。人類は、目の前に広がっていた自然と戦い、多かれ少なかれこれを征服しながら文明を築き上げてきた。自然の領域を侵略した先に、現在の人間の文明は成り立っている。
 我々はもはや狩りも採集もしない。我々は有用な動物を家畜、植物を作物として扱う。栄養状態・衛生状態の改善と医療技術の目覚ましい進歩によって、寿命もおよそ二倍に伸びた。人の死は隠蔽され、生のあふれる世界だけが日頃我々の目の前に展開されている。我々は死と再生の力の一端を手にしつつある──今や人工授精も妊娠中絶も再生医療も、何だってお手の物である。

 だとすれば、禁忌を侵した者を「正義の名のもとに罰せよ」だなんて、あまりにも今更じゃないか!
 洋の東西を問わず、生まれたときから我々は禁忌を侵す生き物だ。だって、パンドラの箱も、青髭の城の地下室も、鶴の機織り部屋の襖も、結局全て開かれてきたじゃないか。人類が歩んだ歴史は、同族間の殺し合いでこんなにも血塗られているじゃないか。
 むしろ人間の定義とは、禁忌などというものを打ち立てておきながら、これを最後には破ってしまうところにあるのだ。何が起こるのかを薄々勘づきながら、そしてそれが己の立てた禁忌に抵触すると知りながら、なお一歩踏み出して、真っ逆さまに墜ちることを選ぶのが人という種族である。

 クソ、どうにでもなってしまえ、私はもう柵の内側に安住する羊人間にはへつらわない──パンドラの箱を開けない者は人間じゃない! そして、私たちは人間だ。
 どうしようもなく人間だから、こうせざるを得なかった。いや、こうすべきだったとさえ言っていい。生命倫理、神の領域をも、侵さなければならなかったのだ。

 だが、禁忌を侵した罰は受けなければならないと悟ってもいる。
 むしろ、禁忌を侵した罰を受けることこそ、人の本懐なのかもしれないな。自ら選び取った罪と罰を愛する。うん、いかにも人間的じゃないか。
 私はそれがつらくも嬉しい。三浦。きっと貴方は、今でも私と同じ気持ちでいてくれるのだろう。貴方だけが私の理解者だったと思っているし、私が貴方にとって一番の理解者であったことを祈っている。

 ただ、私がどうしても気に食わないのは、私たちのことを「道徳的に」裁けると思っている人間たちなのである。「おかしい」「自然じゃない」「神の不可侵の領域に手を出した」などという言葉で私たちを非難し、停滞を是とする人間たちなのである。
 いつから、パンドラの箱をそもそも開けようとしないことが道徳的に正しい行いになったのだ? 人の命が重くなったときからか? だが、人の命を重くしたのは、そこまで人類を「進歩」させたのは、まさしく人の命が軽かった時代じゃないか。
 生きているだけで、我々はそういう時代に育まれた思想と技術の恩恵を受けている。あの時代の数多の犠牲から受益している我々はみな、禁忌を侵した罪人たちの共犯者だ。今、停滞を是とできているのも、結局のところ我々が血塗られた時代の遺産を相続したからにすぎない。
 だというのに一人の人間が今更「禁忌を侵すな」だなんて──しかも、私的かつ感情的に言うならともかく、没人格的で普遍的な正義のもとに裁こうだなんて──片腹痛いと思わないか? 正義を「没人格的で普遍的な」次元にまで高めたものでさえ、結局は流された血と怨嗟の声なのだから! どうやら正義は、自分が地獄の揺籃で育てられたことを忘れてしまったようだ。

 そんな恥知らずな正義に裁かれるくらいなら「理屈など知らん、私が気に食わない」と言われた方がよほどいい。自分たちに血塗られた過去があったことを忘れ、遺産を相続したことを忘れ、そうして遺産を食いつぶすような見せかけの平穏を肯定するくらいなら、いっそ罪人と呼ばれた方がマシだ。
 だから、神の領域を踏み越えて、墜落するその瞬間まで進み続けるのだ。さあ、宣言しよう。「愛する人との間に子どもが欲しい──ヒト本来のあり方さえ、この切なる願いを制限することはできないのだ」と。
 進め、堕ちろ、本当の意味で罰を受けるその日まで。パンドラの箱を開けたことを過ちだと認めるのは、最後の希望が潰えてからでいい。

 さて、じきに裁判が始まる。それでも──教えてやろう、人は真の意味で私たちを裁くことができない。「ホモの変態野郎め」? 「生き物としておかしい、異常だ」? 「やったことを一生後悔しろ」? はは、クソ喰らえだバーカ!
 私たちは自由だ。人間の定めるいかなる量刑であれ、真の意味で私たちの自由を奪うことはできない。罰を受けることでさえ、いや、罰を受けるからこそ、それは何よりも私たちが自分で選び取った結末なのだ。
 ほら笑おう、三浦。こうして捕まって自分の行いを後悔する瞬間ですら、愛おしいものだと笑おう。数奇な運命に生まれついてしまったことさえ祝福しよう。罵詈雑言を浴びながら幸福だと叫ぼう。

 罪を犯して、幸せなのだ。私も、貴方も。

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