見出し画像

恐怖と「男性」

ここでいう「男性」は、ラカン的なニュアンスでの「男性」です!
既存のジェンダー・イメージを利用するようなずるいやつでごめんな!

あと普通に妄言


ニーチェが『悲劇の誕生』『善悪の彼岸』で言っていることに「逆じゃね?」と思った。なお根拠はない。

ざっくりいうと「高貴な者は恐怖を掻き立てるものを善とするが、奴隷は恐怖を掻き立てるものを悪とする」的なことが主張されている(『善悪の彼岸』の312ページあたりで)。
でもって、「最初の冒涜(=肯定されるべき能動的な罪)は恐怖と苦悩を受けながら男性によって犯され、最初の罪(=禍をもたらすもの)は女性によって犯された」などと言うわけだ(『悲劇の誕生』の112ページ前後で)。

この辺りから「男性・恐怖を引き受ける・高貴」「女性・恐怖を回避しようとする・奴隷」というニーチェの図式が浮かび上がるわけだが──個人的に「起きた(とされる)現象」と「導き出されるモラル」の関係は逆だと思うのだ。

(説明が下手でごめんね!)

つまり「男性は高貴だから、恐怖を感じつつも冒涜を犯した」のではなく「男性は恐怖のゆえに冒涜せざるを得なかったから、後に自らを高貴と定義した」ということだと思うのである。

じゃあ彼らが何を恐れていたのかといえば、それは『悲劇の誕生』でいう「あまりに生産的な自然」であったり、現代思想でいうところの「内奥性・連続性・暴力性」とか「語り得ぬもの」であったりだろう。
つまり「男性」は、暴力的なまでに激しく、理性や言語ではどうしたって説明することのできない「空白」──しかも豊かさのあまり溢れ出してくる「空白」──を恐れたのである。

彼らは恐怖したから、この語り得ない生の充溢を制限しようとした。
理性を用いて、言語や概念で切り分ける。そして言葉では表せない「余白」を隠蔽して忘却しようとする。
禁止を打ち立てる。侵犯をも共同体=自分たちの安寧を維持するための制度に取り込む。
理性だのイデアだのロゴスだのの世界、あるいは救済や至福直観の世界を現実世界=物質の世界の「上位」に打ち立てることで、この世界の生の充溢の恐ろしさを「取るに足りないもの」として貶める。
そして労働や学問によって自然を征服しようとする。

生の充溢を抑え込むことは「将来のことを考えて働く」ような人間性の条件だ。
生命の激しさは「将来なんか知ったこっちゃない、今ここ」に集約されるためである。

人間は生命の激しさを抑え込むことで、将来に向けて働き、過剰な富を生み出し、知見の蓄積=学問を可能にした。
これをなしたのがいわゆる「男性」だったのだろう。そしてその背景には、生の充溢の激しさに対する恐怖=死への恐怖があった。

恐怖に駆り立てられて彼らがなしたのが人間性を打ち立てることだったとすれば、なるほどその行いは「人間なるものにとって」肯定的な罪=冒涜であったということもできよう。
それどころか「恐怖」を人間性を打ち立てるために必要な条件──「善」ということだってできよう。
そして人間性を打ち立てた「男性」は「高貴」なのだろう。

だが、それは「人間性が確立された」後代の見方に即して、かつての「男性」の行為を評価しているにすぎないのではないか。
後代は人間性の恩恵を受けているに決まっているのだから、人間性を打ち立てた「男性」の評価も高くなるでしょうとも、ええ。

そして、それをしなかった「女性」は「恐怖を回避しようとした、高貴でないもの」として扱われるわけだ。

いやむしろ、「女性」は激しい生の充溢を象徴するものとして、「男性」に恐れられていたのではないか?
生物学的な意味での「女性」は出産するからだ。一つの個体から次々に別の生命が生まれる──まさに「ありあまる自然の生産性」の象徴といえる。

以前もこんな話をしたが──この点に関して興味深いのは、ギリシャ神話のガイアとゼウスにまつわる部分である。

大地の女神ガイアは独力で子どもを生み出した。
しかし、男神ゼウスが生殖力を手に入れるためには、妻メーティスを飲み込んだり、セメレーの胎内から胎児を取り出したりする必要があったのである。

想像力さえ及ぶのであればなんでもありな神話の世界、その主神たるゼウスですら、独力で子どもを生み出すには至っていないのである。

然らば、こう邪推せざるを得ない──「男性」は自身を「生殖力で女性に劣る」とみなしていたからこそ、「女性」を、生の充溢を恐れたのだと。それこそ、神話の世界ですら生殖力で女性に勝ることを想像できなかったくらいには。
そして、この恐怖から先に述べたような人間性を打ち立てて、その外側にあるものを征服できる自然=劣ったものと信じることにしたのだ。

「女性」は、「男性」が恐怖に突き動かされながら人間性という城壁を築き、その内側に立てこもるにあたって、「理性=人間性の外敵」として低く見積もられるという巻き添えを食ったのだろう。

さて、現代に至ってもなお理性=人間性が信じられている以上、この構造が根本的に変わることはしばらくないのではないかと思っている。

ジェンダー平等が主張されようが、そこでいわれているのは「女性も男性同様、理性的である」といったことにすぎない。
理性=人間性の神聖視は変わっていないのである。

だから「女性の社会進出(変な言葉だ、家庭は「社会」じゃないのか?)」は起こっても「男性の家庭進出」は起こらないのだろう。少なくとも「女性の社会進出」よりそのムーブメントは弱い。

そして「女性の地位向上」が「女性が、これまで男性の支配してきた領域に進出する」ことだけ・・を意味する限り、それは所詮「男性性の勝利」にすぎないのである。
やるなら「男性が、これまで女性の支配してきた領域に進出する」とか「『男性』の打ち立てた理性・人間性・労働の世界自体を疑問視する」とかもやらないと。

ちなみに、個人的には昨今のメンズメイクなんかは「男性が、これまで女性の支配してきた領域に進出する」のうちに入らないと考えている。
なぜならこうした動きは、資本主義の世界=労働の行われる「男性」的世界の規律の中に組み込まれているからだ。「メンズメイクというムーブメントは、金儲けのために利用されているでしょ?」という話である。

ってかなんなら、家庭だの家事だの美容だの、ステレオタイプ的に「女性」の領域とされてきたことが、最近ますます縮小されて市場の中に組み込まれている気がするな。
共働きの核家族化しかり、家事代行しかり、万人に開かれ万人が潜在的消費者となった美容しかり。

「男性もメイクするようになった」──一見すると、社会が「女性化」したようにも見えるだろう。
しかし結局のところ、この「女性化」の推進力が資本主義=「男性」的論理である以上、それは真の意味で「女性化」ではない。

むしろそれは社会の「女装」なのだ。
根本的には「男性」的である社会が──批判を受けてか、自らの倫理的限界を悟ってか──「女性」的な化粧を施して、まるで自分を「男性」でないかのように見せかけているにすぎないのである。

しらんけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?