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【短編小説】白昼の幽霊

ブラック企業を辞めて田舎に引っ越した人が、かつての同僚に向けて懺悔する短編小説です。

以前、女→女のクソデカ感情を書いたので、今回は男→男のクソデカ感情を書いてみました。ただ、これをBLと呼ぶかというと違う気もする。

まあ、一応BLタグもつけとくか……
同性間のクソデカ感情を書いた作品って、好き嫌い分かれるだろうしな。


 昔「イタリアでは、最も影の短くなる真昼間に幽霊が出るのだ」と聞いたことがある。なんでも、影が短くなる時間は魂にとって良くないらしい。
 それに、地中海性気候の乾いた暑さを凌ぐ昼寝の習慣──シエスタもまた、幽霊の味方をしているといえよう。みんなが死を装って眠る静かな時間に、本物の死者が顕現する。いかにもな話じゃないか。
 まあ、現代人は「古代ローマの迷信でしょ」などと言って信じないのだろうが。

 なあ、久保田。俺は今、あの職場をやめて田舎に引っ込んできたんだけども。
 ここは盆地にあってさ、夏場はすげー暑くなるんだ。昼間なんか、外に出ているヤツはほとんどいない。過疎化した集落で、農家がちらほらあったりもするけど、そういう人たちは大抵、日が高くなる前に農作業を終わらせてしまうんだ。そういうわけだから、昼間は俺以外に誰もいないよ。

 ジリジリジリジリ……ミーン、ミンミンミンミン……

 …いや、蝉もいるか。でも、それだけだ。
 こうして黙念として座っていると、ものの輪郭を炙り溶かす強烈な日差しと、田舎らしい夏虫の大合唱にかき消されて、誰も俺たちがいる場所に気づかないように思えてくるな。
 ここは、都会のあの喧騒からは隔絶されているんだ。分かるか。蝉はうるさいが、それでも静かだ。人もいない。意味のある言葉もない。どんな罵詈雑言も、体裁ばかりのクソな仕事も、ここじゃあ夏の太陽に焼き滅ぼされて終わりだ。

 だからさ、久保田。会いに来てくれないか。
 悪いな。俺には、まだお前に会いに行くだけの胆力がないんだ。

 お前みたいに、「最終的解決」に踏み切れなかった。
 だからこそ、あのクソな職場を辞めて、転職して、今や片田舎でリモートワークをしているというわけだ。
 ここでの暮らしは悪くない。全てが片づいた今、生きていて良かったと思うよ。少しな。だが、後悔してもいるんだ。

 ツクツクオーシ、ツクツクオーシ、ジー……

 お前は凄いヤツだよ。全くもって、弱い人間なんかじゃなかった。
 いや、よそう。弱い人間「なんか」という言葉が、お前を追い詰めたのかもしれない。これは俺の、そしておそらくはお前の悪癖でもある。

 弱い人間になれなかったんだよな。
 自分が弱者になることが、それこそ死ぬよりも怖かった。

 お前は恵まれていて、有能で、大きく失敗することもなかったがゆえに、却っていつの間にか引き返せないところまで行ってしまったのだろうよ。皮肉なことだ。
 お前には、高みを目指し続ける以外の生き方が分からなかったんだよな。上ってしまった高みから今更降りることもできず、烈日に焼かれながら高く、高く飛んでいった。

 ピー、ヒョロロロ……
 …ああ、鳶がいるな。

 とかく、そうやって墜落したんだろう、久保田? イカロスみたいにさ。
 俺が思うに、かの神話は総体的に「人間の男」が直面する悲劇みたいなものを描いているんじゃないか? まあ、戯言だと思って聞いてくれよ。
 俺たちはどうしようもなく「太陽」に焦がれている。明るい真理の光に。温かく力強い熱に。それが天高く輝いているという事実に。あるいはその苛烈さに。
 だが、鳶みたいに、太陽めがけてまっすぐに飛んでいくことはできない。人間が太陽を直視すれば目を焼かれ、近づけば蝋でつながれた翼はバラバラになってしまうのだから。

 挙げ句の果てに、それでも欲した太陽は「決して手の届かない本物を模した、まがい物の灼熱」という有様だ!
 だってそうだろう? いくら立派な翼で羽ばたいたって、本当に太陽がいる宇宙空間まで飛んでいけるわけじゃない。そもそも、上空に行けば行くほど気温が下がるのは、現代人なら常識だ。普通に考えて、蝋が溶けるはずもない。
 じゃあ、イカロスを焼いた太陽が何だったのかといえば、それは「神話の」太陽なのだろう。科学的な「現実」とは違う──天高く飛翔すれば熱をもって生命を焼き滅ぼす、そういう太陽の「イメージ」だ。

 イカロスは偽物の太陽に焼かれ、本当に墜落して死んだ。滑稽だと思わないか。「狭い」神話の世界で、焼かれるに値しない「誤った」太陽のイメージに焼かれ、堕ちて、死んだ。本当に滑稽だよ。
 ヤツは神話の内側で墜落し、神話の外側で死んだものとして語り継がれている。それは絶対的な死だ。滑稽で、それゆえに哀れなほど悲劇的な死。どう足掻いても内側からはひっくり返しようがない死だ。

 久保田、お前もそうだよ。俺も、危うくそうなるところだった。
 お前は「高みを目指して、競争に勝ち続けなければならない」という神話の中で墜落した。そうして全てが手遅れになった後で、外側から「そんなに辛かったなら逃げればよかったのにね……」なんて、無責任な言葉をかけられている。
 そんなのさ、「太陽に近づいたから墜落するなんて、そんなことあるわけないじゃん」と科学的に正しい言説で嘲笑されるのと同義じゃないか。あんまりだ。神話の中の人間は、神話の中でしか生きられなかったんだよ。そこで死ぬしかなかった。

 ピー、ヒョロロロ……

 お前らなんかに、久保田の何が分かるっていうんだ。
 なあ、俺は、お前の悲劇を決して嘲笑しないよ。誓わせてくれ。
 同じ「神話」を生きた者として、俺は、俺は──

 ピー、ヒョロロロ……

 いや、違うな。俺は逃げ出したんだ。久保田が最後まで逃げなかったあの神話から。
 人は「あんなところ、辞めて正解だよ」とか「今、貴方が生きていて良かった」とか俺に言う。給料が下がったと伝えてみても「死ぬよりはマシだよ」と笑い飛ばしてくれる。

 ピー、ヒョロロロ……

 俺は、幸せなんだろうな。
 だから、怖いよ。

 ピー、ヒョロロロ……ピー、ヒョロロロ……ピー、ヒョロロロ……ジャリ。

 …久保田、やっぱり、会いに来てほしいという話はなしにしてくれないか。悪い。本当に悪いと思っている。
 俺は、神話の外側を知ってしまったんだ。お前の一番の理解者でありたかった。だが、それももう無理なのだと、今になって悟ってしまったんだ。

 カナカナカナカナ……

 けれど信じてほしい。今でもお前は、俺にとっての太陽で、イカロスで、白昼の幽霊なんだ。
 白日の下にその姿を現すにふさわしい、明朗なる光と苛烈さの化身、神話に捧げられた犠牲者、純然たる悲劇の存在そのものなんだよ。
 だけど、さっきも言っただろ? 太陽もイカロスも幽霊も、神話の外側から否定されなければならない。そういう宿命にある。だから、さ。

「悪い、久保田」
「それでも、お前に憧れていたよ」

 ギィ、バタン。

「──────!」
「──ああ、今行く。何を手伝えばいい?」

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