イギリス史ここが面白いよ⑵:地政学的位置
前回↓
今回は「ヨーロッパの辺境、大西洋の片端」というイギリスの地政学的位置から、イギリス史の面白さを紹介する。
相変わらずざっくりしているので、まあ気楽に読んでほしい。
地政学的位置
近代の「大英帝国」のイメージを強く持っている人からすると意外かもしれないが、イギリスはヨーロッパの「辺境」に位置している。
イギリスが「世界の中心」と呼ばれるようになっていくのは、せいぜい18世紀に入り、スペイン継承戦争が終わった辺りからなのだ。
それまで覇権を握ってきたのは、みなさんご存知の、ハプスブルク・スペインやオランダといった国々だった。
じゃあイギリスはその間何をしていたのかというと、外からの侵略と外への侵略と内ゲバが頻発する中々にカオスな環境で、必死に政治制度を整えていたのであった。
というか、イギリスの政治制度は外からの影響を強く受けて形成されてきたフシがある。
パッと思いつくだけでも、
ノルマン・コンクエスト※の影響から、イギリスでは封建制度が確立した
リチャード1世の十字軍遠征費用を捻出するために行政・財政組織が発達した
ヘンリー8世やエリザベス1世の「国王至上法」は、対外的な君主主権の確立を目指していったもの
……とかね。
それに、前回ちらっと触れたジェントリやシティの市民といった新興階級が勃興したのにも、色々とヨーロッパ諸国との関係が絡んでいる。
ジェントリが権力基盤となる土地を大量に獲得できたのは、フランスやスコットランドとの対外戦争で金欠になったヘンリー8世が、修道院から没収した領土を大量に売却したからである。
シティの人々はもっと分かりやすい。彼らの権力基盤たるマネーは、海外での商取引やら投資やらを通じて得られたものだったのだ。
そして、イギリス史のこうした展開は、イギリスがヨーロッパから近すぎず遠すぎずの位置にあったからこそ生じたものだったといえるだろう。
ヨーロッパから遠すぎないからこそ、絶えず外国勢力との争いに揉まれる中で、ナショナリティや独自の政治制度を現出させることとなった。
それと同時に、ヨーロッパから近すぎないからこそ「共通の普遍権威を戴く、一つの礫岩のようなヨーロッパ」から早々に離れて、大陸領土を持たない海洋商業国家──後のイギリス帝国として、ヨーロッパの外へ活路を見出していったのである。
(まあ、それでもカレーを失った当時なんかは屈辱だったろうけどね!)
対外的にも対内的にも、イギリスの政治的方針を形作り、決定してきたのは「ヨーロッパの端っこにある島国」であるという地理的な事情であった。
ここがまた、イギリス史の面白いところなのだ。
対外的な主権を確立しながら、全時代を通じてヨーロッパとの交渉がある。
と同時に、ヨーロッパの外側にも広く目を向け続けている。
イギリス史の魅力は、第二に、旧世界と新世界の間で培われたの独立と交渉のバランス感覚にあるのである。
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