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ユートピアと題している作品、大体ディストピア説

(ここ最近の話ね!)

「差別がない世界」とか「格差がない世界」とか「不幸がない世界」みたいな題を付された小説は、実のところほとんどがディストピア小説だろう。
理由は簡単で、作者自身が、真の意味で差別や格差や不幸がない世界について想像することができないためである。

だからこそ「ユートピアを謳う世界≠ユートピア」という構成にならざるを得ないのだ。
「ユートピアの名を冠したディストピア」を想像するのは簡単だからね。サンプルもいっぱいあるし。

(やや上から目線なもの言いになってしまったが、もちろん私も真のユートピアを想像することはできないので、人のことは言えない)

まあ、それも当然である。「真のユートピアとは何か=何が人にとって本当に善いことなのか」という問いにまつわる見解は、とにもかくにも一致しないのだから。
何ならついこの間まで、「資本主義が最もユートピアに近い」勢と「社会主義が最もユートピアに近い」勢で長い冷戦を演じていたくらいじゃないか。

その辺の一個人が「真の意味での」正しい社会のあり方を見つけ出せるのならば、人類史はこんなにも血塗られてはいなかっただろう。
なにせ「正しい社会のあり方」という命題は、有史以来の人類の歩みに常に光陰を添えてきたのだ。ポンと答えが出せるものでもない。

大体、現代に生きる私たちはユートピアの理念にそもそも懐疑的である。
プラトンの理想国家でも宗教の天国/極楽でも、それこそトマス・モアのユートピアでも何でもいいが、我々は「このような社会こそが理想的だ」という主張に対して、半ば本能的に疑いの目を向けてしまう。

なぜなら「理想的な」社会像は、その内に「これこそが正しい価値観だ」という押しつけがましさを孕んでいるからだ。
この「押しつけ」こそ、自由を重んじる私たちが、最も忌み嫌うものの一つだろう。

それゆえに現代におけるユートピアは、想像しうるか否か以前に、その理念から否定されてしまう運命にあるのだと思う。
「理想的な社会とは何か」より先に「理想的な社会なるものを考えることは、そもそも正しいのか」という点が問題となってくるのである。そして、この問いに対して「正しくない」と答える人も、現代では大勢いると思われる。

ユートピアの題を冠したディストピア小説の作者が感じているのは、ある「特定の価値観」に基づいたユートピアが目指されていることに対する反感なのだろう。
それは、自由を至上の価値とする人間が抱くことになる反感だ。
まあ、ユートピア理念の押しつけに対して「ああのこうのやかましいわ!」と言いたくなる気持ちは分かるよ。私も貴方たちと同じ社会に生きていて、大体似たような価値観を持っているからね。

(ここでいう「特定の価値観」とは、最近ではおそらく欧米中心主義的なポリコレの考えなどだろう。断言はしないけども)

しかし所詮、「自由こそ最も重んじるべき価値である」などと考えている時点で、私たちもユートピア論者と同じ穴のムジナなのだ。
「自由が大事」というのも、ある意味では、近代の民主主義社会に慣れ親しんだ者特有の価値観だといえるからね。

だからこそ──ちょっと喧嘩を売らせてもらうが──「ユートピア理念を批判するようなディストピア小説」は往々にして薄っぺらに見えるのだろうか?

ディストピア小説は、ユートピアに真っ向から挑んでいるようで挑んでいないのである。

構図としては「自由という価値を重んじる人間が、その他の価値を重んじる『ユートピア』を批判している」という形になるだろうか。
それはユートピアという理念そのものを根本的に否定しているわけではなくて「結局は自由を重んじる方が、よりユートピア的な社会に近づくのだ」とか「結局、人間にユートピアの実現は無理だ」とか言っているにすぎない。

自由などといった「特定の価値観」に基づいて、「より優れた」社会について考えている以上、ディストピア小説はユートピアを乗り越えてはいない
「何が理想なのか」「理想を実現できるのか」ということに関して見解の相違があったとしても「何か理想が存在する(=より優れた価値観が存在する)」という前提は崩れていないのだ。

(もちろん、ユートピアを乗り越えないことが、必ずしも間違っているわけじゃないけどね)

「ユートピアを批判しているけれど、結局は貴方が否定の形で謳っているものだってユートピアじゃないか」
「ディストピア小説を書いている貴方だって、何かユートピア的な夢想から逃れられていないじゃないか」

──こういう印象は常につきまとう。

それに、「ユートピア」を非難する言葉が冷笑的であればあるほど、どこか滑稽さが生じるように思う。
まあ、俗に言う「ブーメラン刺さってるよ」というヤツである。

こうやって考えていくと、ディストピア小説は否定神学なのだろう。
「ユートピアは〇〇である」と言うことはできない。だが「ユートピアは少なくとも〇〇ではない」と言うことはできるかもしれない。
そして、この「〇〇ではない」にあたるのが、ディストピア小説が描き出す世界なのである。

ディストピアはユートピアの否定神学であって、無神論ではないのだ。
どれだけ人間不信に陥っても、どれだけ冷笑主義をこじらせても、どれだけ「特定の価値観」から距離を置こうとしても、私たちはユートピアから逃れられないのだろう。
逃れたそばから、いや、逃れようとしたという事実から、すでにユートピアは追いかけてくるのだから。

それゆえに、人が「ユートピアなんて想像上ですら存在しないんだ!」と語気を強めているのを見ると「けど、貴方がそんな風に言うのは、貴方の中に漠然とでもユートピアのイメージがあるからだよね」と言いたくなってしまうのかもしれない。
ディストピア小説に対してたまに抱く「言っていることが根本的に浅いな」という印象も、おそらくここに由来するのだろう。

(性格わるーい!)

まあでも、こんなしょーもない文句をダラダラと書いているヤツよりは、どんな内容であれ何かを創作しているヤツの方が偉いよ。ほんとに。

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