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【短編小説】視線、笑い──不快、偽善

不躾な視線と差別意識と、不愉快なときに出る笑いについて

※若干の差別的描写を含みます


 最初に感じたのは不快感だった。
 にわかに混み出した電車内で、その人物は一人で二席を占領していた。

 次に感じたのは、納得だった。
 正面にいるその人物をよくよく見てみると、何やら目の焦点が合っていない。口からは絶えず不明瞭なうめき声が漏れている。服装もどこかちぐはぐだ。

「ああ、おそらく何かしらの知的障害があるのだろう」──その人物が、ダン、と大きな音を立てて床を踏みつけた。おっと。我に返る。あまりジロジロ見るのは良くない。

 私は手元にある慎ましい文庫本に目を落とす。それから、自分の偽善を可笑しく思った。
 自分が座りそこねたわけでもないのに、一人で二席を占領するという行為に義憤なる不快感を感じた。その鬱憤を晴らすために、目の前の人物を観察することにした。そして「この人は知的障害者である」と断じた。最後に、自分がこの人物をジロジロと眺めていたことを適当にごまかした──「やっぱりジロジロ見たら良くないよね、いや、私だって分かっていますよ」とうそぶいたのである。

 なんと華麗でなめらかな偽善の犯行だろう!
 なんと巧妙な差別意識、なんと自然な特権意識なのだろう!

 手の中に収まるベルクソンの『笑い』は「性格なり精神なりないしは肉体なりのこわばりはすべて社会の懸念の種になる」「このこわばりが滑稽なるものであり、そして笑いはそれの懲罰なのである」だなどと語っている。
 私は内心呵々大笑しながら、再び顔を上げて、目の前の人物を見据えた。ああ、大きくのけぞっている、相変わらず奇声を上げながら。その手足はこわばって、固い棒切れのようにあちらこちらに投げ出されている。

 頭の中に鳴り響く笑い声は、今や万雷のようだ。私は不快なのだ。何が?──全てが!
 目の前にある二つの席が占領されていて不快だ。「知的障害者なのだから大目に見られて当然だ」という理由で、堂々と一人で二席を占領している、目の前の人物が不快だ。その人物が「自分は迷惑な行為をしている」と自覚することさえないのだと思うと不快だ。「何が迷惑な行為なのか」を自らの尺度で手前勝手に判断している私自身が不快だ──思うに、義憤とは人間が最も恥じるべき感情の一種なのだから。
 目の前の人物が一体全体何を考えているのか、そもそも考え事をしているのか、考えるだけの知性があるのかどうかすら分からないことが不快だ。そうやって目の前の人間の知性があるとかないとか邪推して、無遠慮に探り回っている自分のさもしい学者根性が不快だ。目の前の人物を見下して、好きなように観察して良い対象物だと判断している、自らの差別意識を自覚するのが不快なのだ。
 散々不躾な視線を送っておきながら、ふいに怖くなって目を逸らす、小心な悪意が不快だ。どうせ見るなら、とことんまで図々しく眺め回してやればいいのに。根っからの見る主体になる覚悟さえないのだ、弱虫め!

 私は笑う。「私は笑っている」すなわち「ぎくりと不快感を覚えたところに懲罰を加えようとしている」ということを、高みから特権的に、客観的に眺めている自分自身をも笑う。
 けたたましい哄笑はどこまでも上方へと昇っていき、笑っている私自身を次々に追い越していく。笑う私を追い越した私がまた笑った、しかしその私でさえも、再び追い越され笑い飛ばされていく──道徳心の大聖堂は、無限の笑い声のポリフォニーで満たされる。

 電車が駅に止まった。乗り換えだ。私は本を閉じ、荷物をまとめて席を立つ。

 最後にあの人物に一瞥をくれる。その、どこを見ているのか分からない目は、最後まで・・・・とどまることなくギョロギョロと動き続けていた。

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