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自由と責任

「自由には責任が伴う」と、私たちは聖句をそらんじるがごとく唱える。

しかし、責任とセットにして語られるこの「自由」は、ある種の擬制であるようにも思われる。

結局のところ「自由があるから責任が生じる」のではなく、「誰かに責任をとらせないといけないから、自由というものがあることにされた」んじゃないのか?

だって実際、人生の選択を自分の意志のみによって行うことのできる人間が、この世界にどれだけいるというのだろう?

「行きたい学校があった。しかし、家庭の経済状況が悪くて行けなかった」
「入った会社がブラック企業だった。しかし、貯金も転職先のアテもないから辞められない」

──こんなことはザラだ。
結果として彼らは、行きたい学校に行かなかった・・・・・・り、ブラック企業を辞めなかった・・・・・・りするのだろう。

だがもちろん、彼らのこの選択は、彼らの意志のみによって行われたわけではない。
そこには、本人にはどうしようもない無数の事情が影響していたに違いないのだから。

それでも、選択がなされた以上は、その選択の責任を誰かが負わねばならない。
そして、分かりやすく責任を負わせることができるのは、最終的にそれを選択した人間である。

まあ嫌な言い方をすれば、ある人に様々な不正義のしわ寄せがいった挙げ句、それを「顕在化させてしまったのだから」と責任まで負わされる、なんてことも全然ありうるわけだ。

とはいえ、仕方ないといえば仕方ないのだろう。
「この苦しみは誰のせいだよ!」なんて言われても、周囲の人間の実感的にはどうしようもないのだから。
「え、私のせいではなくない?」としか答えようがないだろう。

社会が高度に発達して因果関係・利害関係が複雑になったことに加え、極めて個人主義的な世の中では、他者の苦しみの責任の一端が自分にあるとは思えないし、思いようがないのだ。

そもそも、具体的に自分が何かやった覚えのないことについて「私にも責任がある」と思うのが、正しいことだという保証もない。
だって誰しも「別に貴方が謝る必要はないのに……というか、貴方に謝られてもこっちの気持ちは晴れないよ」とモヤモヤしたことが、一度や二度はあるだろう。

とにかく、そんなことをぐるぐると考え続けて、答えは出ない。

いっそ無邪気に「貴方のせいだ。自己責任だ」と言えたら、お互いに楽なのかもしれないね。
たとえ「選んで自由を行使したのは貴方でしょ?」という言葉で、誰かが時々犠牲になることがあろうと。

……というと、何だか「自由と責任こそが正義だ」という言葉が、どうしようもなく嘘くさく、くだらないもののようにも思えてくる。

しかし、責任を負うことが、辛いこと・やりたくないことだと思われても良くない。そう思ってしまったら、あらゆる自由に責任がつきまとう社会で幸せになれないからね。
だから、我々は「責任を負えるのが一人前の大人だ」ということにしているのだ。

そして、それは具体的な制度を設計する上での要請でもあったと思われる。
少々乱暴に思うかもしれないが、個人的には、非人格的な官僚制を敷く近代法治国家がこういう責任主体を求めていたのだと思っている。

別に、「〇〇に責任がある」というポーズだけが重要なら、責任主体なんて幽霊とかでいいわけじゃん? 実際そういう社会もあるし。

(ここで「幽霊は実在するのか」といったことは問題にならない。そんなもん、実在しようがしまいがどっちだっていいのだ)
(みんなに「幽霊を責任主体に仕立て上げることもできるよね」という了解さえあれば事足りるのである。冒頭でも話した擬制というヤツだね)

東アフリカ牧畜社会には「殺された仲間に対して、彼らの分の復讐をするという義務を負っているから、敵を殺しに戦場に赴くのだ」という人々が存在するらしい。
この場合、「戦いが起こる」ことの責任は、死者にかかっているといえそうだ。

しかも興味深いことに、彼らは「具体的に何人殺されたか、何を奪われたか」といったことを正確に数値化して勘定しないのだという。
これは、例えば「各種の」犯罪に対して「懲役〇〇年」のようにはっきりと量刑が定まっている近代的な法治国家とは大きく異なる。

佐川徹「暴力の貸しを取り返しに行く─東アフリカ牧畜社会における復讐/感染/代替の論」佐久間寛編『負債と信用の人類学―人間経済の現在』(以文社、2023年)

それでも、我々の暮らす社会では「責任主体なんか何でもいいじゃん。幽霊に責任があると言われても納得できるよ」とはなっていない。
これはきっと、責任云々について最終的にジャッジする権利を持つ「国家」が、非人格的なものだからだろう。

非人格的に、ソリッドに、「誰でも、無関係な人でも納得できるような」証拠・記録を残しつつ責任をとらせることができるのは、生きている人間──それも、確たる人格を持つとされる人間だけだ。

幽霊に罰金〇〇円を払わせたり、独房に✗✗年閉じ込めたりすることはできないからね。
近代法治国家のように「責任を数値化する」やり方では、実体のないものを「罰する」ことはできないのだ。

ゆえに、責任をとれる主体は「実体を伴っているため、いざとなったら罰を与えることができて、責任という重荷を背負わせても平気そうな人間」──要するに「思考力のある生きた人間(=成人)」ということになったんじゃないのかな。

それと同時に、人々自身も自由を希求し、自ら責任を負うことに誇りを感じるようになった。
少なくとも「責任感がある」が褒め言葉として通用する時点で、「責任を負えることに誇りを感じる人々が一定数存在する」ということは信じてもらえるだろう。

(まあ「責任なんか、負わずに済むなら負いたくないよ」という人も大勢いるかもしれないが……)

制度上の要請が先か、人々の自由を求める心情が先か。

どちらが先かは知らないし、どちらもが絡み合っていたというのが、おそらく実際のところだろう。

とにかく、今の私たちが感じている「自由と責任」という正義の誕生には、「責任を数値化し、実体をもった個人に押しつける」権力側の動きと、「自由を希求し、責任を引き受けようとする」人々の精神の発展が複雑に絡み合っているんじゃないだろうか。

だが、責任というものは、必ずしも個人が孤独に背負い込まなければならないような性質のものではない。
だから「別に今ここにいる・・誰も悪くなくね?」というときには、幽霊か何かのせいにでもしてしまえばいいじゃないか。

まあ、現代社会では無理なんだろうけどね!

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