『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』読んだー
ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ。
細かい内容については他の人がすでに解説していると思うので端折るが、印象に残った部分だけ書き留めていこうと思う。
(岩波文庫版の後ろについている、訳者解説なんかを見ると良いと思うよ!)
「近代資本主義」と「資本主義の精神」
ヴェーバーは大体こんなことを言っている。
「資本主義の発展に伴って、資本主義の精神が生まれたのではない」
「資本主義の精神が、資本主義それ自体の発展の土壌になったのだ」
面白いね。
一般的に考えられているようなこととは、因果関係が逆転していると考えたのだ。
ヴェーバーはこの主張に伴い、緻密な調査と論証を行っているのだが、それは興味を持った人が各自で見てほしい。
大まかな流れを説明すると以下の通り↓
「金がたくさん欲しい!」という欲求自体は、古今東西に見られる
しかし、「とにかく金が欲しい!」よりも「生活に必要な最低限の金を稼いだら、後はダラダラしたい」という伝統主義の意識が強い
仕事も「やらなくちゃ生きていけないから、仕方なくやるもの」だと思われている
キリスト教的な禁欲も、俗世間の活動から離れた「世俗外的」な場所で行われるものだった(例:修道院)
↓
ルターが「仕事(Beruf)」に「神から個々人に与えられた使命」というニュアンスを付け加える
カルヴァン派とかその辺が、この「仕事」の概念を予定説にガッチャンコさせ「神から与えられた使命である仕事を頑張ることで、死後に自分が救われることを確証できる」という考えを生み出す
「世俗内的」禁欲への展開と、「資本主義の精神」の誕生
↓
「資本主義の精神」を兼ね備えた経営者と労働者が大量に供給されることで、近代資本主義のメカニズムが形成される
「資本主義の精神を備えた労働者が大量に存在した」というのも重要なポイント
予定説により「大きな利益が出るのは、神に愛されている証拠」「貧乏なのは、神がその人は貧乏であるべきと思ったから。めげずに頑張ることが神の意にそぐう」的な発想が出てきて、労働者をこき使うことが倫理的にも正当化されてしまう
↓
資本主義のメカニズムが隅々まで浸透すると、もはや宗教的心情という土台は必要なくなる
「救いの確証を得るため、仕事に励みたいから励む」のではなく「仕事に励まない人間は、そもそも社会で生き残れない」ように
あとは「救い」など関係なく「とにかく仕事と金儲けに励もう!」という精神が、亡霊のように残存する
感想
一般に考えられていることとは、因果関係が逆転している
「理想・精神がある→それに沿った仕組みができる→元の精神が消える→仕組みだけが強制力を持って残る」的な流れ
↑これは「近代資本主義」という壮大なテーマに限らず、割と色んなところで見られる現象な気がする。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は最後の方の文章も面白いので、機会があればぜひ手に取ってみてほしい。
それじゃあね〜
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