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価値という概念

価値なるものは実在しない。
価値というのはどこまでも人間の主観だ。

「そうはいっても、例えばきんの値段なんかは客観的じゃないか」と思うかもしれないが、これだって結局はフェティシズムの制度化なのだ。
つまるところ、「金には価値がある」という人間一般の主観が制度化された結果として客観的に見えているだけであって、その本質はなお主観なのである。

だって、金に価値があるのは、人間がそう信じているからにすぎないじゃないか。
というか、金が価値を持つ理由なんて大方それで完結する。

工業分野や医療分野といった多少の例外を除き、金に大した実用性はない。
少なくとも、実用性の観点からのみ価値を判断したのだとすれば、金があそこまで高価になることもなかっただろう。
そもそも、きんかねが同じ字である時点で、金とはある種抽象化された価値の化身なのだろう。

宝飾品も投資も、実生活の役には立たない。
食べ物に金箔を乗せたところで、味や栄養面に変化があるわけでもない。

それを思えば「金に価値がある」という考えは、たまたま大勢の人間に支持されているだけの制度化された主観である。要はフェティシズムだ。
「金は希少」「金は安定した金属」「金は見た目に美しい」──こうした理由づけは、いずれにせよ金が価値を持つことの根源的な説明にはならない。
価値は人の主観と、それを制度化した価値体系(これは一見すると客観的に見えるが、実のところ必然性がない)の中にしか存在しないのだ。

いや、そもそも何かをもって「価値がある」と捉えること自体が主観である。
先ほど私は「金には大して実用性がない」と言ったが、「実用性があるものに価値がある」という考えも、結局は主観的だといえよう。

なぜなら、「実用性」「価値」といった概念は人の思考の中にしかなく、また、これらの概念の結びつきも、所詮は頭の中で勝手にそうしているだけの、非必然的なものにすぎないからだ。
「実用的ならば価値がある」という考え方は、本質的には「ドブネズミは商売繁盛の神だ」と考えるのと同じくらい恣意的であるといえる。

我々はおそらく「実用的なものに価値がある理由」を説明できない。
「いや、実用的なものは生活の役に立つから……」とか「生活の役に立つものは人間の幸福度を上げるから……」とかしどろもどろになりつつ言ってみたところで、結局は「幸福が価値を持つ理由」が説明できなくておしまいなのである。
「Aが価値を持つ」という文章の中には、絶対に論理の飛躍が入ってこざるを得ない。だって、「価値」は事物のうちに本質的に内在しているわけではないのだから。
これは究極的には信仰なのである。価値なるものが存在するという信仰、そして、あるものの中に現実に価値が吹き込まれているという信仰だ。

さて、近代のヨーロッパ人は、アフリカで「ドブネズミは商売繁盛の神だ」と考えるような信仰を目にして「アフリカ人は未開で論理的・合理的思考を持ち合わせていないから、物神崇拝を行ったり、金を無価値なガラクタと交換したりしてしまうのだ」などとクッソ傲慢なことを考えたわけだが──実のところ、上記の点を思えば、ヨーロッパ人も大して変わらなかったわけだな。
金なんかありがたがっているうちは、自分たちが言うところの「未開人」をバカにできるわけもないのである。

そして、こうしたフェティッシュは、なんだかんだで比較的最近の科学の領域においてさえも見られる。
メートル原器やキログラム原器なんかが分かりやすい。「1メートル」や「1キログラム」を示す物体を、度量衡の基準として用いてしまうのだ。

「あらゆる物質は経時変化を起こすので」メートルやキログラムはこうした原器によってではなく、後に光速やプランク定数の値によって定義されるようになったわけだが──どこか滑稽だと思わないだろうか?
アフリカ人のことを未開だの何だのバカにしておきながら、結局「欧米人(ここでいう欧米人とは一種の概念であり、日本人も含むといってよい)」だって「原器という物体に、メートルやキログラムといった価値が内在している」というフェティシズムから逃れられていなかったのだから。

© Succession Marcel Duchamp/ADAGP, Paris and DACS, London 2023

デュシャンの《三つの停止原基》(1913年)は、こうした心性を揶揄しているのかもしれない。
そして、メートル原器の廃止が1960年、キログラム原器の廃止に至っては2019年であったことを思えば、この心性は全くもって過去の話ではないといえる。

現代に生きる我々だって、どうしようもなくフェティシズムの中に絡め取られているのだ。
それは人が価値というものを信じ続ける限り、なくなることはないのだろう。

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