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DEATH STRANDING評

 昔、揶揄を帯びた都市伝説として語られていた「大御所漫画家は目しか描かない」という言葉があった。
 私はそれを聞いてむしろ寒気を覚えるほど感動した。目しか描かない作品に自分の名前を載せて全責任を背負えるのか、と。
 やがてそれは週刊連載においてほぼ当然の仕組みであることが広まり、今ではほとんど語られなくなった。

 大作を四畳半で作れた時代も今は昔。ゲーム製作は数百の人間と数百億の金が動く大事業となることも珍しくなくなった。十人十色と言うように、100人いれば100通りの感性と思考が交わる。主人公の言葉から路傍の石に至るまで、誰か一人の思想と技術のみで作り上げられるなど、もう誰も思っていない。
 しかしそれでも、彼はそのゲームに自らの名を強く刻むことをやめない。企画、ゲームデザイン、脚本、演出、監督を全て自分でこなし 、責任を持って創ったと、世界に宣言するのである。

 A HIDEO KOJIMA GAME

 その銘に恥じぬ作品だった。精緻に組まれた極上のSFとして、音楽との融和を成した映像作品として、新しい体験を保証するゲームとして、どこを切っても小島秀夫の味が出る。
 何より設計が面白い。オンラインに繋がりながら、他のプレイヤーは終始現れない。しかし道なき荒野に現れる橋や屋根。昨日まで何もなかった荒地に、獣道のように筋ができる様は、確かにそこに誰かがいることを感じさせる。

 もしかしたら、これは彼がみた風景なのかもしれない、と思った。
 かつで繁栄を誇った世界は一瞬で崩れ去り、隠れることも逃げることもできない荒野が残された。
 自分という存在だけがそこに放り出された時、寂寥感さえ呑み込むほどの恐怖に襲われる。それまで成したことは無意味だったのか?と。
 しかしある時、そこに看板を見つける。言葉ではなく、親指を立てる記号があるだけ。
 見た者はなぜかそこに、無限の言葉を感じてしまう。大丈夫、俺もいる、お前はやれる、この世界は消えていない、今までしたことは無駄じゃない。そしてこれからも……。

 だとしたら、これは芽だ。
 一度荒野となった小島秀夫の世界に芽吹いた、世界を包む小さな芽だ。
 かつて見せてくれたような大樹になるのか、見たこともない花が咲くのかわからない。
 あるいは還暦間近の男にこれ以上の傑作を強請るのは酷だろうか?否、こうも見事な復活劇を目の当たりにしてしまっては、それもできない相談である。

 デスストランディングの評を書いていたら小島秀夫の評になってしまった。ご容赦願いたい。だがすべてのファンの期待の、目くらいは書けたつもりでいる。

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