博物館に行ってきた話

あらまし

知り合いの知り合いというつながりで5年くらい前に一回共通の知人を介して札幌で複数人で飲み会をして、その後Facebookで友達になりなんとなく近況を互いに知っているという関係が続いている知人がいて、引っ越して比較的近くなったので声をかけて遊びに行くことになった。比較的近くなったといっても電車で片道2時間、車でも1時間くらいなのだが(しかしこれまでの海をまたぐ・地方単位をまたぐことを思えば間違いなく近い)。まあ、会いにいく際の目的地がその人の勤め先の大きい博物館なので、博物館にそのくらいの時間をかけて行くのはそんなにおかしなことではないだろう。そのいつぞやの飲み会で「お近くにお越しの際は遊びに来てください〜」みたいなこと言ってた気がするし(社交辞令は都合の良いように真に受けておく)。それと、ある程度が担保された(価値観が比較的合うというか、地雷ではなさそうみたいなことは5年もFBを見ていればなんとなくわかる)新しい知り合いというのは貴重なものだしせっかくなら会って仲良くなりたい。

休日にどこかに出かける計画なんて久しぶりだ。片道2時間の電車なんて、もはや小旅行である。飲んだ後の全てが面倒になる気持ちも見越して、いっそのこと泊まって翌日帰ることにした。安いカプセルホテルやビジネスホテルに泊まるのが結構好きなのでこういう機会があるとわくわくする。

前日までのメッセージのやり取りで「時間わかったら教えてください、朝起きてから決めるのでも構わないですが(笑)」的なことを言われていたので、お言葉に甘えて目覚ましもかけずに土曜の朝を迎えたが、いつも通り目が覚めてしまう。最近はいつもこうだ、まあ目覚ましかけ忘れても寝坊せずに済んで助かっている面の方が大きい。それよりも、目が覚める直前に変な夢を見てしまった。私の杜撰な計画のせいで、今日(その博物館にいく日)の計画がおじゃんになる夢だった。なぜか当日昼に函館に行ってしまい、どう急いでも博物館にはいけないことがわかり青ざめどう謝罪しようか考えているところで目が覚めた。
職場に寄って来週に向けての用事をこなし気分を軽くしてから小旅行の道程を開始する。久しぶりに電車乗ったが、車内を見回すと本当に全員がマスク着用なので改めて驚く。半年前は病院でもマスクつけてない人が少なくなかったのに、違う世界線に来てしまったと感じる。
12時過ぎに博物館の最寄駅で待ち合わせて、雨がひどかったのでタクシーに乗って博物館に行き、一緒に展示を見て回る。特に職員パス的なものがあるわけでもなく、その知人もふつうに受付で入場券(600円)を購入していた。職員にわざわざ金を払わせ休日も職場に来させているわけで、何だか申し訳ない。

その博物館の展示は先史時代から始まり、時代を下って現代まで、という流れになっている。歴史の話がメインだが、年代の測定法やCTスキャンでの解析等の考古学的手法みたいなものについても解説があり面白い。
展示はどれも興味深いが、何も考えずにいると無言のまま二人で展示を見て終わりそうだと途中で気づく。じっくり見ている私に遠慮してか先方も話しかけてこないし、というか展示を見ながらどのくらいおしゃべりをしていいものなのか計りかねる。そもそも5年ぶり2回目くらいの対面なのでどんなテンションで会話すべきかいまいちわからない。感染症騒ぎで飲み歩いたりする事も無くなった私は、職場以外の場所で人間と話すときにどうすべきだったのか完全に忘れてしまったことに気づく。
だが話さないとなると休日に職員を職場に呼び出して一体何をしているのかということになってしまう。そんなわけで展示を見ての疑問とかしょうもない感想とかを口にすると、(その人の専門分野というわけではないだろうに)補足知識みたいなのを言ってくれるのですごいなと思った。
展示を見ているとそのうちに横から控えめに博物館職員ならではの裏事情やら豆知識やらが披露されはじめたので、こ…これは最高な博物館の楽しみ方だな…と思った。かなり広大な展示会場の博物館だったので、途中私が興味ない展示は飛ばしつつも(でないと1日じゃ終わらない)、見落としそうな場所の力の入った展示には誘導してくれ、こんな良い博物館の周り方はそうそう無いんじゃないか。


博物館にて考えたこと|時代と共に移り変わる労働とか生活水準とか

ところで、私は「世の中に存在する仕事」について思いを巡らせるのが好きだ。というのは、世の中にはありとあらゆる種類の仕事が存在しているんだなということに気付いてからというもの(大学二年生で人体解剖の授業があるのだが、大学の解剖学講座のある穏やかな若者が「ご遺体」を準備(詳しく書かないが色々な処理を)してくれていることに気づき、自分の中の何かがひっくり返るくらい大層びっくりした)、「これまで考えたこともなかったが考えてみればそりゃ確かにそれは誰かが仕事してくれてるんだよな〜」というような仕事についてつい考えてしまう。考えたこともなかったような些細なことでも、それが存在しなかったら確かにいろいろが成立できないし、誰かがそれを生業にして日々過ごしているんだな、と思う。
私にとってそれは谷川俊太郎の詩の一節の「カムチャッカの若者が きりんの夢を見ているとき メキシコの少女は 朝もやの中でバスを待っている」とか、星道夫のエッセイか何かの「今こうして日本であくせく働いている時も、同時にアラスカには広大な自然が広がっている(大意)」みたいなことに近い。私が神経をすり減らしながら病院で働いている時、誰かが私の想像の及ばないような仕事をしていて、それでこの世界が成り立っている。

それで、何を見るにつけてもなんとなく職業という観点からみてしまうのだが、博物館の有史以前〜現代までの展示を見る中で、「人類の歴史とは即ち人類の労働の変化の歴史なんだな」と思った。時代は進歩していくけど、その中身は結局人間がどう働いて何を生み出しているかということだな、と。どんな歴史上の煌びやかな品も、その上等な材料を誰かが集め、運び、加工し、組み立て細やかな細工を施したりしている。
そうした過去に生きた名もなき職業人たちに想いを馳せると同時に、この博物館もまた無数の人間たちの労働のもとに作られていることが改めて思い起こさせられる。土の中にあるそれが古いものかもと気づいた人、連絡した人、発掘した人、発掘する人を取りまとめる人、破片をつなぎ合わせる人、そのレプリカを作る人、博物館の展示内容をセレクトする人、説明文を書く人、照明のあたり具合を調整する人……。発掘された本物はどこか暗くてひんやりしたところで厳重に保管されているのだろうか?どこで誰がどのように?考え始めると際限がない。

また、時代が下るに従って、社会が整い、より細かく管理され、より手に入る物の種類が増え、便利・豊かになっていくのが(当然だと思いがちだが)改めてわかって面白い。それはいわゆる人類の進歩とか社会の進歩とかいうやつなのだが、それってつまり「一度上げてしまった生活水準は下げられない」ということなんじゃないかと思った。
戦後の食糧難の展示で「米が足りなくて芋ばかり食べていた」みたいな嘆きを目にするが、数時間前に見た先史時代ではそもそもデンプン質を摂取できることはかなり少なく(ゆり根とか?栗とか?)、多分芋すらなかったのだ。決して生物学的にはコメがないと生きていけないわけではないだろう。なのに何なのかこのコメへの執着は。別に生物として必須ではない、ある時代に新しく導入されたものが、いつの間にか必須のもののように扱われているのが興味深いなと思った。
コメの存在に慣れてしまうとそれ以前と比較して効率よく食料を生産できるから人口も増えて他の分野も発展する。でもその人口を維持するためにはコメを作り続ける以外の道はない。一旦コメの存在を前提に発展するともう米のなかった時代に戻ることはできない。それに似たことがありとあらゆる分野で起こって、進んで行かざるを得ないのが歴史なんだなということをぼんやりと思った。


博物館でぼんやり考えたことを整理し直すと上記のような内容になるのだが、私はこの整理に時間がかかってしまうし、あるいは整理できてなくても上手に喋れれば輪郭だけでも伝えられたかなと思うが、あいにくどちらの技能も持ち合わせていないのだった。

博物館を出てそれから

博物館を出ると雨はあがっていて、まだ乾ききらない折り畳み傘を手に少し歩いて最寄駅近くの古びた雑居ビルに入っている居酒屋に案内してもらった。料理も日本酒も美味しくて楽しかった。どうも二人とも酒を飲むとするすると言葉が出てくるタイプのようだった。
傘は、傘立てに傘を入れたら絶対忘れるだろうなと思って店内に持ち込もうとしたら、おかみさんに傘立てに入れるように言われたのでそうしたが、やっぱり傘立てに忘れてきてしまった。解散する前にそれに気付いたものの、既に店に戻れる距離ではなかったので、傘は後日郵送してもらうことになった(最初から最後まで申し訳なさが募る)。

数週間前に予約したカプセルホテルはやたら安く、一体どんなオンボロかと思っていたら、かなり綺麗で設備も完璧(タオルはもちろん、寝巻きや化粧水まである)だったので、逆に経営状況が心配になってしまった。寝室は上下2段が横並びになっているところを、感染防止策として上下左右の隣り合わせには人が入らないようになっていて(感染防止として意味があるのかはわからないが)うっかり体を壁にぶつけてもあまり騒音にならないので、かなり快適だった。カプセルホテルを利用している時の、自分が何者でもない感じが結構好きで、宿代の心配をしなくてよくなってからも時々利用している(もちろん安さも選ぶ理由の一つだけど)。疲れていてぐっすり眠りたい時に、他の利用者の立てる音が気になってくるとイライラしてしまうので、そういう疲れている時はやっぱり普通のホテルに泊まる方がいいなとは思う。今のところ一人旅で宿泊場所にお金をかけることは理解出来ない。もっと歳をとったりお金を稼いだりしたら変わるんだろうか?

翌朝、カプセルホテルでダラダラして、適当な時間に出て電車に乗って帰る。マスクはしているが人の数が多いなあと思う。こんなに多くの人間が滞りなく暮らせるだなんて、とてつもない文明社会だなあ。

過去に出会ってはいたがあまり関係性の発達してない相手と、何かの折に会うことができるのはSNS様様だなと思う。最初に会った時にFBがあったから、連絡先を知って、投稿を通じてなんとなく人となりや近況を知っているから、声をかけられるのだ。時代が違ったらこうはならなかっただろうなと思う。(でも、そもそもなんでFBで友達なんだろ、5年前ってFBそんなにはやってたんだっけ?)

あと、過去に出会っていただけの相手と、引っ越したりして状況が変わった時に「じゃあ会うか」というようなイベントが起こるというのは、伏線回収ぽくて、面白い。人生の進捗が少しあったかもしれないなという気持ちになる。


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