日曜日の夜は大体泣いている

日曜日、日が暮れてきて、明日から始まる1週間について(きっとたくさんハラハラし息をつまらせ一つ一つの声に怯えながら毎日緊張と集中をしながら仕事をするんだろうなという予感)思いを馳せるともうたまらなく不安でそわそわし、どうしよう!となってしまう。また1週間、苦しみながら仕事をし生き抜かねばならない日々が始まってしまう、どうしよう。一人で過ごしていてもまあ憂鬱だが泣いたりはしない、ベッドに寝そべってスマホの画面を眺めて頭をいらない情報で埋め尽くすと不安は薄まって、あとは時間が過ぎるのをやり過ごすのみ。対して、Yくんと過ごしてそろそろ彼が帰る時というのがその不安のピークだ。神経をすり減らす労働に押しつぶされそうな気持ちと、労働からの連想で少し先の未来の思い描けなさ、特に来年度の職場の移動によって彼との現在の関係性を維持できなくなるのではないかという不安が私を蝕んで、こんな風に泣くのは無駄だし嫌われる原因になるだろうと思いながらも制御できず、目から液体がボロボロと落ちる。こうやって平常運転の時に書くと、本当にバカじゃないのと思うのだが、でも毎週飽きることなく泣いてしまう。

喋れなきゃよかったのにと思う。もし私が猫だったらよかったのに。帰る前になるとなぜだか大きな声で鳴いてまとわりついてくる猫。それならすごく可愛いのに。
つまりそれは28歳の大人の人間がやるべきことではないのだ。残念ながら。
28歳の人間の正解はきっと、そもそも仕事ごときで泣くほど不安になんかならない。仕事は自分の人生の一部にすぎず、仕事のために生きているわけではない。と、もっと強く思いたいが、仕事が求めてくる負荷が大きすぎて時々わからなくなってしまう。あるい正解はその不安を自力で解消する術を持つべきであり、好きな人の前でわんわん泣くのは間違っている。間違っている。一体いつから間違っているのか。間違えない優等生の人生を送ってきたのに、と思うけれどそうやって優等生をしていれば間違えないという考えが多分間違いなんだろうな。
人生を好転させる兆しが(自力他力を問わずとも)見えず困ってしまうな。でも今はいいの、今は。Yくんが自転車で10分のところに住み、金曜に一緒にご飯を食べて土日に用事がなければ一緒に過ごすというこの生活が幸せだと思う。この生活が続くなら仕事が怖くたって頑張るよ。でもそれが失われるのが(早くたって半年先の話だけど)怖くてしょうがなく、それで今から落ち込んだりして事態を悪化させているのだと思う。これは今やきもきして解決できるものではない。どうしようもない不安をただそのものとして受け止めることを身につけるべきなのだろう。どうしたらいいのかなあ。修行か?

修行、といえば私は中学生高校生の頃、そのうち尼寺に入りたいとか思っていた。煩悩から離れて心を静かにして毎日暮らせるようになりたかった。それから時が経って、研修医時代毎日遅くになった帰り道にふと思ったのだった:今まさに修行しているのでは? 毎日朝から晩まで他者のために働き、多少体が辛くたって眠くたって(これは推奨されるべきことではないが)働き、イラつくことや不甲斐なく思うことがあったって表面上は穏やかにしておいて自分のやるべき仕事に邁進する。かなり修行っぽい。
これはうじうじと内省する時間がないくらい忙しい時の話で、ある程度忙しい方が短期的には精神的に調子が出るように思う。「宝石の国」の名台詞「過酷で役に立つ仕事は自分の存在に疑問を抱かないためのよく効く麻酔です」が指していることだと思う。でも長期的にはその「麻酔」は疑問を解決から遠ざけ、気付いた時には時間を無駄にしてしまったということになるんではないか。
最近「麻酔」が切れてきた。もともと望んでやっている仕事ではないので遅かれ早かれ避けられないことのようには思う。専門医等の新たな資格取得を目指し邁進すれば新たに麻酔をかけることもできるかもしれない、そうしているうちに適応して、この仕事が天職に思えてくるかもしれない……そう思いながら学生生活と初期研修をやり過ごしてきたけれど、9年経ってもまだそうならないので、そろそろ諦めた方がいいかもしれない。

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