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行為を覆う思考





わたしはこんなことも気付いてる
こんなことも感じてる
こんなことも分かってる
こんな体験もした
あのことの意味をこう感じた
あの人と同じことをわたしも感じてた

って、
もともとだけど
より一層、

拍車がかかってたのここのところ。

いつにも増して思考が溢れ出て溢れ出て

記さなきゃ
記さなきゃ

残さなきゃ
残さなきゃ

ってもう追いつかない追いつかない。

もはや、どこに向かってるのって。

だって気のせいじゃんそれ、
気のせい?
それ誰に向けて言ってるの?
誰のために記してるの?
誰がそれをみるの?

わたしだよね?

なにか得体の知れないものに対する
自己顕示欲と承認欲求でしかないやん

なにか得体の知れないものとか言って
それ自分やん
それ満たすの自分しかできんやん

ほら 気のせい。

もうそういうの要らないやつ。


行為に沿った、行為を思わせる、行為の本質を語る言葉ってうつくしい

行為に沿わない、行為と共に世界に循環しない思考はひどくエゴイスティック

そういうひとりごとのような言葉はせめてうつくしくありたい
祈りのようでありたい




行為に沿った思考は創造的

これをつくるために 思考する
あの人にこれを伝えるために 思考する

行為を覆う思考
行為をつくる思考
その先に循環が起こる思考
大きく、永く。

思考すら思考こそ意識的にするんだ



最近の謎だった、

わたしが藤井風よりキングヌーより髭ダンにときめくのはこういうことかもなきっと

少し前までの大好物で貪り食ってたそれはもうお腹いっぱいでもう充分
今の気分は今わたしを満たすのはこちらだな
というだけのこと

今そういうのがすき
行為に、意志に沿った言葉って
シンプルで実直
そういうのが今好き

それが声にも現れてる気がする

そもそもは声


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