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生きてるだけで誰かを傷つけ誰かを癒す*真珠の涙

わたしは 敏感に生きることを捨てたので

いってみれば鈍感で 愚鈍と言っても構わない者です

嫌だという言葉 これを発することも捨てました

嫌だと叫ぶことで 嫌なことが無くなるわけはないので

仕方ないなぁと思って 気持ちの落ち着き先を見つけました

そうしたら 面白いこともあるし

見た目よりかきついよねって 親友に言われて

そんなに可愛いの?って 視点を変えるのは得意になった

辛口なのは正直っていう 魅力的なことだよねって


世の中では 自分の居場所を心地よくするために

だめです こうしてくださいって誰かが主張するので

それが言うべきことなのか それとも単に傷つけることなのか

自分のためなのか 人のためなのか

優しさなのか 欺瞞なのか なんのためにそう言いたいのか

考えてしまうことがある 

ドツボにハマってどっぴんしゃん

ぬけた~らどんどこしょ

井戸のまわりで、 お茶碗欠いたのだぁれ?

そうか って ただ自分の考えだからかって 

意味をみつけられず ひとまわりすることもある

調和とか思いやりって やっぱりめんどくさい

それは結果じゃなくて 最初からの目標なのかな?

世の中は 不快なところが面白くて

おかしいと笑うところが 悲しいんじゃないんだっけ?

誰かを 知らずに傷つけてると思うとこわいから

傷つけられても なんにも気にしないで過ごそうと思う

なにか それで調和がとれると思う きっと

だって その人も傷つけてることを知らないんだもの

私もそうだと思うから 気にしないことにしてる

でも傷つけられたことは いつまでも忘れない

私もそうだと思うから 嫌われても平気

嫌われても 私は嫌わないから どこかで辻褄があってるはず

ただ そうなんですね と 受け止める

気持ちの落ち着く 孤独を味わう

ときどき その孤独の時間は

長いトンネルを走るかのように 先が見えない

でも大丈夫 きっといつも大丈夫

痛い言葉で 傷口に塩を塗るように 傷口を直してもらう

塗りすぎたかなって 傷口の塩をなめてくれるのも知ってるから

世界で一番大事なものは 太陽と海の塩

ひとと ひとの関係だって同じ 

夢の中で 甘い塩をあじわう

19世紀にグリム兄弟が編さんしたドイツの民話集『グリム童話』には、「泉のそばのがちょう番の女」という話があります。

3人の娘をもつ王様が、自分に対する愛情の一番深い娘に最も良いものを遺そうと、どのくらい自分のことを愛しているのかと尋ねます。長女は「甘い砂糖と同じくらい」、次女は「自分の一番きれいな着物と同じくらい」と答えますが、三女は「料理に欠かせない塩と同じくらい」と答えます。

王様は三女の答えに怒って、塩を一袋背負わせて追い出してしまいます。三女は、真珠の涙を流しながら王様のもとを去り、森の泉のそばに住むがちょう番の老婆のもとで、醜い姿に変えられて暮らすことになります。後悔した王様は娘を探しますが、見つけることはできませんでした。

3年後、森を通りかかった若い伯爵が老婆と出会い、荷物を運んだお礼として真珠の入った箱を貰います。その後、王様のもとを訪れた伯爵がこの箱を献上したところ、中の真珠を見た王妃は、三女の流した涙の真珠であることに気付き、伯爵に、三女がいなくなった経緯を話して聞かせます。

そして、伯爵は、王様と王妃と三人で三女を探しに行きました。三人は森で老婆と出会い、もとの姿に戻った三女を返してもらうことができ、その後は皆が幸せに暮らしました、というお話です。

塩は、目立たなくても暮らしに欠かせない大切なものであると考えられていたことが伺えます。

大切さを塩で例える話(ドイツ) | 塩と暮らしを結ぶ運動公式サイト (shiotokurashi.com)



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