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そういうことも、あるね。

かつて、恋に落ちた相手の人生にとって自分が必要ではない判断し、本格的な恋愛関係に発展する前に、可及的速やかに撤退したことがあった。

周りの人には「お前はバカか?好きならば、ガンガンいくべし」と言われた。

その言葉はありがたかったが、総合的・俯瞰的に見て彼にとって明らかに私は不要で、不要である上に、むしろ私がいないほうが彼の今後の人生が美しい気すらした。

それはもう神様が与えたチョイスであり、実際、個人レベルではどうにも出来ねぇし、仕方がないことのように思えた。

それを本能的に悟った時、撤退することにした。

その時は、キツかった。

最後まで自分本位な恋愛感情が爆発しかけた。

私を忘れるな、馬鹿者よ、とエゴも炸裂した。

出会った理由についても、真剣に考えた。

離れたほうがいいのであれば、じゃあ、なんで、出会ったん?

私がワンチャンいても、ギリ、いけるんじゃないですかね?と思った。

ギリギリまで踏ん張った。

でも、やはりお互い厳しいと悟った。

それに実際、出会った理由なんてなくて、後から人間が考え出したオマケみたいなものなんだと思う。

出会った意味など、別に、何も無い。

出会った理由がない代わりに、別れの代償に、人の心をまたひとつインストール出来ただけだった。

クソ。

まじ、クソ。

でも、その経験をする前の自分にはもう戻れないほどに、身体を司る成分から私は変わってしまった。

もはや、本能で撤退した。それしかなかった。

不思議なことに、今も1ミリも後悔していない。

「あの選択こそが真実の愛だった」と自己憐憫に浸る気も、さらさらない。

犠牲論は、いつも居心地が悪い。

ただ、あの日、私は何も失っていなかった。

そこにあるのは自らへの矜持と、撤退一択という確信だけだった。

その時、そういう恋もあるのだと知った。

ただ、それだけのことが、私を強くした。

出会うタイミングも、出会う人も、自分では何も選べない。

大切な人といつまでも一緒にいられるとは限らないし、運命の人と添い遂げられると決まっているわけでもどうやらないらしい。

やれやれ、である。

それでも私は人と出会い、恋に落ちることや、この人を知りたいと思う感情に対して、決して臆病でいたくはない。

出来るだろうか。

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