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お笑いと文学ー談志・やすし・たけし・人志

 文芸誌「文學界」1998年3月号に発表したコラム「お笑いと文学」を以下に公開します。この時、立川談志は62歳、ビートたけしは51歳、松本人志は34歳、横山やすしは1996年に死去(51歳)。私の38歳の時の文章です。

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 立川談志と横山やすしとビートたけしと松本人志には共通点がある。いずれも名前の最後に「シ」という字がついていて、密かに私は彼らのことを「シ」系のお笑い芸人と呼んでいる。ところで、さて、その「シ」とは何だろう?
 まずは「詩」。彼らは四人とも徹底して言葉の人である。落語家や漫才師が言葉を使うのは当然だが、話し言葉に限らず彼らはすぐれた書き言葉を持っていた。立川談志の『現代落語論』、横山やすしの『まいど! 横山です』、ビートたけしの『漫才病棟』、松本人志の『遺書』といった著書を一読すれば、すぐにそれは了解されるだろう。書き言葉とはいうけれど、なあに口述筆記じゃないかと疑問に思う方もいるかもしれないが、少なくとも(意外にも?)横山やすしと松本人志は先の著書を自らの筆で書いたものだと力説していた。いずれにせよ、いわゆる職業的な物書きが選ぶのとはまるで異なったセンスの言葉たちによって彼らの「詩」は輝いている。
 次に「私」。ビートたけしの愛読書はコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』なのだという。彼らは一貫して「私」的な存在であって、常に「公」との衝突を繰り返している。立川談志の落語界に対する反抗から、横山やすしのたび重なるトラブル、さらにはビートたけしのフライデー襲撃事件に、松本人志のフジテレビ『ごっつええ感じ』降板騒動に至るまで。時代時代のお笑いやテレビ芸人の頂点と見えて、彼らは基本的に一匹狼で、(ひと昔前ならそれこそ「アウトサイダー」とか「トリックスター」とか呼ばれたのだろうが)つまりはかつての''無頼派"の人々のような行動スタイルを生きている。
 続いて「志」。先の彼らの著書がすべてお笑い論や、お笑い芸に関する独自の考え方を述べた部分に終始したものであったことは興味深い。落語論を語る落語家である談志や、お笑い芸を語ることがお笑い芸となってしまったたけし、ともに笑いの''天才"と称されるやすしと人志。彼らは常に自らのお笑い観を開陳しつづけ、時にその口調は激烈かつ啓蒙的ですらある、つよい「志」を持つ表現者であった。自らの芸に対して自覚的な、きわめて自己言及的なお笑い芸人だとも言えるだろう。私生活の破天荒さと対比するにそのお笑いに対する姿勢はとても''真面目”でストイックで、お笑いに対する"真面目”さこそが私生活の破綻を産んでいる原因とさえ言える。そこでは「志」は(談志風にいえば)ほとんど「業(ごう)」とスレスレのものとも言える。
 そして「師」。いつもたけしのよき「師」であろうとした談志。因縁的に人志の招かれざる「師」であったやすし。先頃、北野武の編集する『コマネチ!』という別冊雑誌が出たが、そこでたけしと人志は初めて対話を交わしていて、両者がいかにやすしの被害に遭ったかという事実から語り始めている。午前4時のやすしの訪問にたまりかねて自宅を引っ越したというたけし。小林信彦の『天才伝説 横山やすし』にもやすしとたけしの対比はあったが、ただ、ついに最後まで松本人志の名前が出てこないのはどういうことだろう? やすしの最晩年に「やすしくん」というキャラクターを演じて痛烈にからかって世の糾弾を浴びたのは松本人志だったではないか(その時、やすしを擁護して公に人志を批判したのは、先の『天才伝説 横山やすし』でけっこうな書かれ方をしていた高信太郎だったはずである)。もちろん人志にも言い分はある。彼の著書には、まだ駆け出しだった頃のダウンタウンがお笑いコンテストで司会のやすしにこっぴどく怒鳴りまくられ「あの時、やっさんをなぐっとけばよかった」とまで書かれていた。だが、今にして思えば、自らを批判した爆笑問題を呼びつけ土下座させたとも言われる''天才''松本人志は、ある意味で横山やすしにソックリである。吉本出身の天才肌で孤独な破滅型の芸人、対照的に相方は陽性で誰にも好かれる大衆的芸人と(さらに萩本欽一を批判したたけし、たけしを批判した人志……を批判することで爆笑問題の太田光もまた二人の「師」ーーたけしと人志に似てしまう)。人は知らずと自らの敵対した「師」の姿に似てしまうものかもしれない。今さらそれを''父殺し”などと呼ぶのはやめよう。いずれ松本もその最晩年には時の若手のホープに「ひとしくん」というキャラでからかわれてしまうのではないか?
 最後に「死」。フライデー襲撃とオートバイ事故でビートたけしはニ度死んだと言われている。彼の監督する映画の中ではいったい何度死んだことだろう。先頃、ガン手術から生還した記者会見でスパスパ煙草を吸ってみせた立川談志は充分にたけしの''顔面麻痺記者会見”に対抗意識を燃やしていた。横山やすしは本当に死んでしまったし、『遺書』という大ベストセラーを書いた松本人志は芸人としての自らの「死」についてばかり語っている。破滅型の芸人である彼らは宿命的にいつも「死」の影を色濃く漂わせていた。「死」こそが彼らの「笑い」の原動力となっているように見える。
 さて、実は私は三島由紀夫と大江健三郎と中上健次と島田雅彦(あるいは村上春樹)について書こうと思っていたのだった。自らの仕事に自覚的な、きわめて自己言及的な「志」を持つ作家たちについて。しかし、すでにそれは語ってしまったように思う。「お笑い」を語るつもりが「文学」のことばかりを。もう一つ言えば彼らは皆「士」でもあった。文士がいれば、笑士もまたいるのだ。えっ、そりゃあ笑士千万だって?……おあとがよろしいようで〜。ジャンジャン!

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