美術館で写真撮影の賛否

国立新美術館のテート美術館展にいった。
写真撮影OKだったので、みな写真を撮りながら鑑賞していた。

すると近くのお兄さんが(多分わざと)周囲に聞こえるくらいの音量で言った。
「みんな写真撮るのに夢中で、それが目的になっているじゃん」

おそらく彼は「絵は鑑賞するのが目的だから、写真をとることに夢中で鑑賞がないがしろになっている」と批判したかったのだろう。

まぁ気持ちは分かる。
もし仮に同行者が写真ばっか撮って、ぜんぜん直接、絵を見てなかったりしたら「写真撮るのもいいけど、直接みるほうが大切じゃない?」と言いたくなる。

そして恐らく写真を撮っている人のなかには、確かに写真を撮ることが目的化してしまっている人も居るだろう。
それは確かに勿体ないと思う。

絵の写真ならググればスマホで見れる。
せっかく本物をみれる機会だから、スマホのレンズを通してではなく、五感で絵を感じたほうがいい。
本物を観るのは、インターネットで絵画の画像を見るのとは全く違う次元の体験だと思うから。

Googleで「美術館 写真」と入れると
「うざい」と候補で出てくるように
美術館で写真撮るのに批判的な人は一定程度いるらしい。


しかしである。
美術館にいく目的は自由なのだ。
大体の人は写真を撮っていても、でも同時にちゃんと肉眼で絵を見て、五感で作品から何か感じている。
写真をとっていても、撮らずに黙々と鑑賞している人より、別に感性が貧相な証拠ではない。

純粋に作品を見ることも美術館にいく目的の一つであるなら、同時に友人やSNSに「〇〇美術館に行ったよー」とか「△△って作品が感動した」と感動したと共有することも目的としていい。

それのためには画像を添えた方が断然、臨場感が伝わる。

写真を撮らない人は、作品と直面向き合ってはいるだろうけど、他人と共有するほうの美術館の楽しみ方を捨て去っているのである。

というか、むしろ鑑賞することより写真を撮ることが目的となってしまっていてもいいじゃないか。
個人的には勿体無いとは思うけども、別にルール違反をしているわけでもないし、人を傷つけているわけでもない。楽しみ方はそれぞれの自由だ。

それを批判することは価値観の押し付けである。

他人の美術館の楽しみかたが間違っていると感じても、彼らは人を傷つけるでもなくルールの範囲内で勝手に楽しんでいるだけである。
むしろ勝手な価値観を一方的に押し付けて、他人を批判して傷つけようとしているほうが害悪ではないだろうか。

自分と異質なものを劣ったものとしてすぐ批判しようとする(むしろ批判する権利があると思っている)
そのような精神性が、世の中を間違いを許さない窮屈な社会にしていると、ぼくは思う。

ルール違反してなくて、他人に迷惑かけないから何してもいいじゃないか。
自分と異質なものを、意味わかんねーと思いながら、でもしっかり認めるのが多様性だと思う。

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