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宇崎ちゃん献血ポスターに見るコラボと文脈共有の難しさ

献血への協力を訴えるポスターを巡る議論がネット上で紛糾しています。KADOKAWAから発売中のコミック『宇崎ちゃんは遊びたい!』と日本赤十字社がコラボしたもので、「過度に性的ではないか」といった批判が寄せられたのです。(画像はコミックス第1巻カバー。KADOKAWA公式サイトより引用)コンテンツと地域振興という「コラボ」とも無関係ではないこの問題の構造を考えてみたいと思います。

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この作品は朴訥で不器用な大学生の男の子と、活発だけど実はやはり不器用な同級生の女の子のラブコメディで、「胸が大きい」という表現はたしかに目につくものの、私にはマンガのキャラクターによく施される特徴の強調(デフォルメ)というテクニックの範疇にあると感じました。多くのファンや、表現の自由を守りたいという立場の人たちもそんな感覚で批判に反論をしているのではないかと思います。

しかし一方で、コミックを読んでもらった女性からは「やっぱり気持ち悪い」という感想があったのも事実です。そもそも読者として想定されていないと思いますが、性的に解釈されることもある身体の部位を過度にデフォルメする表現は、物語の文脈以前に「生理的に受付けない」とのだということも理解できます。Twitter上での批判も主にその点に集中しています。

この問題、結論からいえば「悪いのはゾーニングの設計が整っていないTwitterだ」というのが私の考えです。この件に限らず、Twitterは様々な意見やコミュニティの分断を引き起こしていることは明らかで、もはや利用者のリテラシーだけでは対処仕切れない状態となっています(この問題について共著で参加している『ソーシャルメディア論・改訂版 つながりを再設計する』でも解説があります)。

意図や文脈を共有できるコミュニティの中で、情報をやりとりしていたはずなのに、ある閾値を超えるとそういった前提を共有していない人々にその情報が拡散され、いったん議論が始まると、批判の応酬となってしまい、ますます分断が進むという現象は、友だち間での受け狙いのつもりが炎上につながるいわゆる「バカッター」問題から、政治、文化、スポーツなどあらゆる分野で頻発しています。

宇崎ちゃん献血ポスターのような「コラボ」では、作品の製作者、ファンそしてコラボを実施する事業者の3者が作品の魅力を共有し、協調することが成功には欠かせません。この構造は『コンテンツが拓く地域の可能性』で示したアニメツーリズムのためのトライアングルモデル(下図)と重なります。各地で生まれた成功事例はこの3者の幸せなコラボが成立していることが共通点としてあげられます。

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ところがこのトライアングルモデルが強固になればなるほど、このモデルの外にいる人々との乖離はむしろ広がるという矛盾が生じます。作品やキャラクターをよく理解している人々がより刺激や新鮮さを感じて喜ぶビジュアルが、外部の人からすれば「理解できない」「気持ちが悪い」と感じられてしまうギャップが大きくなってしまうのです。今回のポスターのビジュアルは、コミックス最新第3巻のカバーを採用したもので、主人公(不器用な宇崎ちゃん)が(気持ちを寄せる先輩に対して)これまでより扇情的な(しかしそれは不器用な愛情表現でもある挑戦的な)視線を送るものが選ばれています。(画像は日本赤十字社のリリースより引用)

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しかし前の文章で括弧で括った部分(文脈)は、作品を知らない外部には一切伝わりません。そしてTwitterで文脈をそぎ落とされて拡散されていったところに今回の炎上が起こりました。本書でも事例として挙げた『のうりん』ポスターや、実際に展示を見ていないネットユーザーから批判の電話が殺到した『表現の不自由展』と構造がとてもよく似ています。

評判形成がこのように行われ、ファンコミュニティにおける「熱狂」とその外部との「ギャップ」が炎上を引き起こし、時にそれが意図的に促進される環境にあるなかで、コンテンツをどのようにプロデュースしていくのかは大きな課題で、まだ最適解は見つかっていないというのが現状だと思います。本連載でも引き続き考えて行きますが、まずはこの構造を理解しておくことは「コラボ」に関わる人々にとって必須だと言えるはずです。




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