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実録・踊り念仏への軌跡


『死してなお踊れ』をはじめて手にした昨年末から、ずっと頭は『踊り念仏』です。そこで、ああ!と完全に掴まれて、カラダが、状況が…次々と……
という記録は、この数週間で力を込めてしてゆきました。

ストリップ劇場、踊り…という私にとっても、この文に目を通して貰っている人の多くにとっても、貴重なとっかかりがあって、今回は今の自分の可能な限りでの最大限のお声掛けになりましたが、怪我をしたことで、逆に明日生きるのがやっとな怪我人となった私の状況を並行しお伝えする状況などから、とても無碍にはできないと思う'人'の気持ちにたくさん支えられ、私のご縁、えにし、タイミングに因るものも大きい訳なのですが…

自分が今まで取り組んできたストリップでのダンス?踊り?舞?オドリ?(2017年以降からは所作という括りもいいなと思うようになってきました)は、ありがたきプレゼントのような事故のようなつまりは恋心のようなチーム、コラボショーや、シャッフル、ダブルステージちょっとしたフィナーレダンス、駆け出しの頃の振付(5年くらいは極普通にサボり魔と真剣の葛藤をしながら取組んでいましたが、ある時、これ以上は自分には無理なんだ…自分のわずかな魅力や切札となるものを妨害する…と限界を感じ、かといって他に人を、自分を納得させる何かが見つかっていた訳でもないのに、振付で踊る考えを少しずつ棄てることとなり、今の今まで無謀を繰り返し、苦しみ続けてはいましたが、踊り念仏に行き着き、大怪我をし、考え方の点だけでは、ああなるほど…と自分の行動への答えあわせがやっと7、8年経、今できそうになってきています)以外、どこまでまわりにアピールするか、伝達を試みようとするか、ソロステージへの仕込みや意気込みは、当然に自由度が高かったかと思います。

ある程度、'こういうもの…ではある'というステージを成立させるための暗黙のルール?流れ?トレンド?型?(と最近、教わりしっくりしました)というのはそれぞれが肌で感じたり、教わる人も、いい意味でもわるい意味でもまわりに常にたくさん注目してくれる人がいるし、というか常に誰かに何をどうみられているか、又はみてももらえないか、分かっているようで、分かりきれないほど、みる人の数ほどに細かく違っていて、極端な話では、ひとりの人の激しい熱意を掴むような何かが15分そこらのステージ最中に起こってしまえさえすれば、踊り(に続くベッドショー)への妄執を、お金を頂きながら追及する切符を手にしながら、生活し、人生の旅をすることとなってゆくのです。

今日の今日まで、ひとりで考えれば考えるほど、伝えようとすればするほど、踊りと場があって人が集まるのが当たり前で、何をする?誰がいる?どんな催しだろう?何をみて、あっ近くのあれ食べたいな、○○さんに○○を渡そう…感想を伝えよう、ツイートもしちゃえ、写真を撮って投稿しよう…知り合いに挨拶しよう、交流を深めよう、知らない地を散歩してみよう、休もう、裸を、肌を顔をみよう、宿を取り、乗り物に乗って旅に出よう…もっと色々ありそう(他ライブ、他試合、帰省、出張…)さぁ、その何がある?の'何'を発信したりを、松葉杖なしでまだ歩けない、両足で立てない、今迄のように踊りらしい踊りを踊れない中、ぐるぐるとしていて、いつも通りに何もできてませんでした。

強引ですが、踊りはあとから必ずついて来る、湧いてくる、踊り子さん、パフォーマンスの方、お客さんたち…の肉体、これまでの営み、記憶、体験の中に既にある…無数に、宇宙の如くある…

在るねぇ…

言わない方がいいかな、今迄のようにあとの祭り?として少しずつ格好つけて小出しに絡めて発信しようかなとも考えましたが、もう明日しようと思うことがあってどうにかやっていますが、二度とこんな事はないかも知れないし、この先、裸で踊って生きてゆくのはかなり厳しいのかも知れないということを、怪我からは回復してきてはいても、あたまより心より肉体で一番分かってしまうという局面にはいるので、言葉の間違いもタイミングの間違いも、何も怖くない。

人の、しかも、どうでもよいというのと、まるっきり逆、できるならよい関係を築きたい、できるだけ今の自分の思いを伝えたい、と真剣に願う相手の時間と力をお預かりし、お願いしてみたいと考えていることをお願いする以外は、今の自分にはできない。

伊予の国へ着けたら、道後の空気を吸って、温泉もちょっとまだ無理かも知れない、混雑していない場でないと動くのが難しそう、裸で、無防備な姿で動き回るって、ストリップ劇場で、しなやかでたくましい踊り子さんの姿を魅せつけられているお客さんや関係者、当事者になればなるほど、頭では誰よりも分かっていながらも、その大変さ、裸で無防備な姿で生き物が動き回ることの危険に、盲目になってしまっている…たくましくしなやかに踊れば踊るほど、その姿を目に焼きつければ焼きつけるほど……重ねれば重ねるほど………と私も怪我をして今日の今日までで日に日に気付きを重ねることなのですが、ね



(5/2 前夜祭の皆さんに順にお伝えしている流れより)
そう、つまりドキュメンタリーをしようと試みている…前半。


5/4 本祭は…

勿論、演者側に特別にお願いすることやかける心労はたくさんたくさんあるので、その境目としてお手当(補償、ギャラ)お心つけ(お布施?)入場料などがある…だが、踊りは、その場にいる人すべての肉体、記憶…に既にある。(逆に、踊り念仏だって、よく知っている人は居そうだし、ストリップのことに関しては間違いなく、お客さんによってはお客さんの方が、ステージみる回数も、その熱量も優っているだろうし、個々に踊り子がポラロイドに付け足す文字や人によってはブログや新聞や他のさまざまな活動で発する情報で知りすぎている…少なくとも私よりかはストリップの情報をお持ちだし、踊りが…それだけではない何かも……それぞれに………)宿っているものが踊ると思えてきてしまいました(笑)。私も自分で何を言ってんだ…は、まだちょっとあるんですが、別に間違ってもいないし、というか、本当はそうだ、とよく知っているし、というか、偶に同業者とふざけて根本は同じような茶化した話は今まで散々してきたし…そうとなったら、既にあると気付いた踊りを呼び覚ますには、どうしたらよいかを考えに考え、準備に努めてきましたが、言い訳はしたくないけれど、歩けない、思うように動けない、収入もない…となるとかなり何もできない、思い付くことが悉く殆どできない…

大丈夫だろうか?読んでいる人が一番思うことだと思う。(私も、自分の移動と自分の全く何もできていないあるのかも何を持っていけばいいのか本人が一番分かっていない全く頭が働かず手も動かない荷物のことに関してかなり大丈夫だろうか?と思っている)
でも、本当に不思議なことに、何もできないで日が近付くほど、今迄、十何年間か何かをやろうとし何かしらをしていた時よりも、気持ちが軽くなる…苦し紛れではなく…

踊りが宿っている人たちが道後にいる…

死してなお踊りたい人たちがいる…

そんな感じになるのだと思います。


そして、私も不死身で行きます。


よろしくお願いします。

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