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捨て下手すぎる


何だかの何だかの部分を事細かく書き連ねたくて仕方がないのに、そうはゆかない事情がある。何でもかでもがいいって訳じゃない。

かなり際どい、大多数の人の常識からしたら、理解の範疇を超えているような、それでも、何でもいいなんてことはなく、これをしたらお仕舞いと思っていることをわずかに残し、自分で自分を追い込んでいる。裸で生きてきた名残りがからだに染み付いていて、捨てれない。気に入っているんだろうなぁ。

いよいよ、なところへ来ているなと思ったか、昨日は文字を書いたり、おすすめが通知されるだけになっていたnoteのアプリを開けた。

やっぱり何でもいいって訳ではないけれど、何かを、意味はないことはない筈なんだけど、意味をなさない何かを書くと何かが動く。
'何か'に迫りたいから何かを書く。何にも迫らずとも書く。

運動も積極的にしたいのだけど、次の検査と診察の結果を聞いてからにしよう。

捨てる必要、捨つる心に迫るべくなのか、昨日は砂上の楼閣に触れたら、崩れた砂と化したこぼれ続けるモノを片付ける気合は、昨日以前よりたしかなものになってきた。

昨日、写真に写し撮ったコーヒーサーバがあまりに汚くて自分でもパブリックに載せてしまってシマッタ…となったし、引いたので、少しスポンジでこすってみた。あんまりキレイにはならなかったが今はこれが及第点。

以前、何となく(いや、何となくであり何となくで決してないことにはやく肉薄したい本当に)たしか栗原はるみさんがご主人が亡くなって何年も経つのに、自分のためだけにおいしいものをつくるのは実はすごく大変というようなことが書いてあって、わたしは性格がまっすぐじゃないので、家族も仲間もたくさんいて誰もが憧れるような暮らしのスペシャリストだからちょっとはイメージ作りもあるんじゃないかとは疑ってかかったけれど、かなり忘れられない発信どころか毎日何かにつけて思いが深まる発言となってもう1、2年経つかも知れない。

怪我で動けなかったときは、からだと心が二分し、自分を自分で励ますことがどうにか出来たというか、もうそれ以外すべきことがなかったし、自分で自分を励ませなかったらぺシャんこだった。

何だよ、生活って…

自分で望んだのかもはや分からないけれど、さらさらと砂になっていった生活。墓場と化し、最低限すら切るよう自分で自分を追い立ててしまっている今、

わたしは、うっかり按配のいい普段着や下着を気にくわないと捨ててしまい、なぜか手元に残った2枚の適当な水着を昨日からかわるがわるに身につけて汗を流し、砂上の楼閣の痕跡である大量のモノと向き合っています。

むかし便覧か何かで読んだ林芙美子さんのエピソードで着物も売ってしまい水着一枚で過ごしていたというのが過ぎる。

6月頃、そんなことを或るお姐さんに話ていたら、まさか自分も同じことになるとは…

放浪記書けるように精進します。と元気めいたことは言っておこう。豆カレーを作って食べたい。贅沢なのだろうか。よく分からない。

どうして生きているかが不思議だから、捨てると言っている割に、全然減らぬな愛着の墓場にあるモノたちを前に、今日も捨てに捨てる、、

しかし、捨て下手すぎる……

捨て切れるのか

本当のわたしなんていないのかも知れない…

チラシを破きまくってたら、ハッとする文言がたまに出てくる

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