潜水

潜水

火曜日の仕事帰りに市民プールを利用する事が吉河の習慣になっていた。

時計は19時を回り、人が多過ぎず、少な過ぎないこの時間帯の穏やかな雰囲気が自分に合っているのだ。

いつものように決められた手順で軽く準備運動を済ませ、いざ入水しようとした時、向こう側のプールサイドに小さな人垣が出来ている事に気が付いた。

どうやら誰か倒れているらしい。職員が応援を呼び、担架を持ってくるよう指示している。人垣の隙間から横向きに倒れている初老の女性の姿が見えた。抜け殻のようにぴくりとも動く気配はない。それらしい姿は見かけなかったので溺れた訳ではないだろうし、ここが室内の温水プールである事から熱中症とも考えにくい。

「おばあちゃん!」

思考を巡らす内、それを遮るように若い女性が悲鳴を上げた。大きく目を見開き、倒れている女性に駆け寄って身体を揺すっている。

「どうしたの!おばあちゃん!おばあちゃん!」

「ご家族の方ですか?救急車は呼びました。呼吸はしていますが…」

落ち着いた男性職員にやんわりと静止されると、家族らしき女性は静かにぽろぽろと涙を流し始めた。

長い睫毛を濡らし、涙は次々と溢れていく。競技用の水着を着用し、細い身体の線が浮かび上がっている。水着から伸びる陶器のような白い腕と手で涙を拭う仕草に、不謹慎ながら見惚れてしまうような美しさを感じた。

到着した担架で初老の女性が運ばれて行くと、若い女性も職員に付き添われながら後に続いた。

プールに残された我々(この時20人位はいただろうか)は、歯の間にほうれん草の切れ端を挟み込んだまま生活を強いられているような気分になりながらも、10分もすれば元の穏やかさを取り戻した。

気を取り直して泳ぎ始めると、無音の水中で自然と祖母の事を思い出していた。

小学生の頃、祖父は肺を悪くして亡くなった。祖父母宅は家から自転車で5分程の距離にあった為、私は学校帰りに頻繁に寄っては祖母におやつを振る舞ってもらっていた。私が訪ねてくると祖父はいつも「あれ作ってやりなさい」と言って祖母にお好み焼きを作らせた。

祖母は「はいはい」と言って手際良く小さめのお好み焼きを作ってくれた。私はテーブルに着き、どうしようもなく待ち遠しく、足をばたつかせながらお好み焼きの到着を待っていた。お好み焼きの焼ける音と、ソースの甘い香りが漂う間、祖父に学校の事を止め処なく話していた。祖父は相槌を打ちながら笑顔で話を聴いてくれた。

お好み焼きが到着すると、ソースが満遍なく塗られた大陸の上で、湯気の中ゆらゆらと鰹節が踊っていた。

当時両親が多忙だった私にとって、あの時間はとても大切だったのだと思う。

祖父が亡くなった後も、祖母は一言も弱音を吐くことなく1人であの家に住んでいる。そう言えば最後に祖母のお好み焼きを食べたのはいつだったろうか。

休憩を挟みながら1時間程泳いでいると、徐々に人影も無くなってくる。

最後の1本というつもりで平泳ぎを始めたその時、ふと視界の端に先程の若い女性が映った。いつの間にか戻って来ていたらしい。一番端のコースの水中で、身体を動かしているようだった。潜水しているらしく、しばらく経っても女性は水から顔を上げなかった。つい気になってしまい、平泳ぎの息継ぎの度に、自然とそちらに視線を奪われた。女性との距離が徐々に近付くにつれ、どうやら女性は水中でダンスをしているらしいことに気が付いた。プールの底に足の裏を付け、擦り付けるようにしてリズミカルに左右に揺れている。足と腕の動きを連動させ、腰はそれと逆の方向に揺らしている。キュッキュッと音が聞こえてくるようなその動きを、仄暗い無音の水中で行っている。女性は満面の笑みを浮かべ、ゴーグルもせず目を開けて真っ直ぐに前を見つめていた。

その動きは、大陸の上でゆらゆらと揺れる鰹節に似ていた。

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