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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと20

父にとって姉のような存在だった従姉の世都子さん。彼女のことは何度か書きましたが、世都子さんは、父が宇久須村から修善寺に移ってからも、ちょくちょく様子を見にきてくれたそうです。父を引き取った家での待遇が目にあまり、「まアちゃん、あんたは近くにできた戦争孤児の施設に入ったほうがいいんじゃないか」と心配されたこともありました。

戦争孤児の施設。当時、どんな様子だったのでしょうか。二年前、終戦記念日前後の朝日新聞に、戦争孤児についての記事がありました。戦争孤児の会代表の金田茉莉さんによれば、「戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示しました。しかし、予算も規模もまったく不十分でした。見かねた民間の篤志家や施設が私財をなげうち、孤児を保護したものの追いつかず、街に浮浪児があふれました」。おそらく、篤志家によるものが伊豆にもできたのでしょう。戦争孤児と聞くと、この浮浪児のイメージを思い浮かべてしまいます。上野の地下道で寝起きする姿を、子どもの頃、写真で見ていたからです。「浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。『浮浪児に食べ物をやらないで』という貼り紙まで街頭にありました」というひどいありさまでした。

父のように親戚に引き取られたり、養子に出された子はまだ幸運でした。けれど、と、金子さんは続けます。「里親のもとで愛情深く育てられた人もいますが、戦後の混乱期で人心はすさんでいました。働き手を軍隊にとられ、どこも人手不足でした。こきつかわれ、学校に通えないことも珍しくない。文句を言う親も、行政のチェックも、何もありませんでした」。多くの子どもたちが、そんな状況下にあったのです。だから、鹿島組の人からの助言もあり、父が普通科の中学校に進学できたことはありがたいことでした。けれど、だからといって苦しみが薄まるわけではありません。孤児となった子は、誰もが家族を失った悲しみを抱えて生きていたのだと思います。

今回は、父がもっとも辛い時期に経験した二夜の物語を、以前に父が書いたものを参考にまとめてみます。

中学二年生の秋分の日、朝から農作業に駆り出され、その夕方にひどく怒られ、それが引き金となって家の人と父が言い争いになった挙句、天秤棒を振り回しながらものすごい形相で父を追い回したのです。円蔵さんのスパルタ折檻に加えて、さらにその家族にまで。父はこれまでにない恐怖を感じ、泣きながら家を飛び出したそうです。そして、もう追いかけてこないだろうというところまで逃げて、息を切らしながら空を見上げると、満天の星空が広がっていました。父にとって星空は、兄や尾崎さんの子どもたちと一緒に眺めた懐かしい思い出と共にあります。「あの星座は何だったかなあ」と、強く光る一等星を十字に見たり、線に見たりしながら、気が抜けたようにフラフラと歩いているうちに、お地蔵さんを祀った祠を見つけました。もうあの家には帰りたくない。限界でした。そこで、雨露をしのげそうなその祠で一夜を過ごそうと決めました。あたりの草むらから虫の大合唱が響きます。

恐る恐る祠に入って身を屈めます。街灯などない山の中、真っ暗なその中で目を凝らしているうちに、父は闇の中に光る二つの目に気づきました。「野犬だ」とすぐにわかり、食いつかれるかもしれないと思ったものの、「もう生きていてもしょうがない、そんな気分だったんだ」。だから、ただじっと身を硬くしていました。そのうちに、外から犬の足音が次から次から聞こえてきました。仲間を探しにきたのか、それとも、父の匂いを嗅ぎつけて集まってきたのか。唸り声、吠える声。突然、祠の中にいた犬が大きな音を立てて祠の扉に体当たりして外に飛び出しました。外の犬たちの絡み合う音、足音、遠吠えは、明け方まで続き、父は一睡もできないまま朝を迎えます。九月後半の山の明け方。ぐっと冷え込み、父は恐怖と寒さで震える体を小動物のように丸めて時を過ごしました。

朝の光が山の向こう側から射し、やれやれと緊張が解けたところで「急にお腹に痛みを感じたんだ」。昨日の昼から、何も食べていなかったのです。家を飛び出し、走って逃げて、恐怖の一夜を過ごした父は、喉もカラカラでした。急いで谷に降りて、ゴクゴクと喉を鳴らしながら水を飲みました。何も食べるものは持っていなかったので、川辺に生えているイタドリの茎を齧り、山の棚田まで歩き、収穫間近の稲穂をちぎり、口に運びました。「モミを噛んで白い液を喉に流し込んだんだ」。それでいくらかは空腹を我慢できました。

昼間、父は世都子さんが話していた戦争孤児の施設を目指したそうです。けれど、どうしても場所がわからず、道に迷ってしまい、山の中に戻りました。そして、人目につかないよう山の小径をあてどなく彷徨ったといいます。「ツバナの若い穂を噛んだりしてね、食べられる植物は宇久須時代に村の子から教わったんだ。子どもはみんなおやつにしてたんだよ」。夕方になって人の気配がなくなったことを確認すると、山の開墾畑に入って、サツマイモを掘り出し、生のまま齧りました。生のサツマイモは、甘みとともに薄い渋みがあります。その味が舌に伝わると、父は無性に悲しくなって、涙がこみ上げてきました。「まアちゃん」と、どこからか両親が呼んでいるような気がして、思わず、「お父さん、お母さん」とつぶやきました。天涯孤独な我が身を思い、父はたまらなく心細くなりました。それでも畑で拾った蓆を担いで、昨夜の祠に向かっていたといいます。ほかに一夜を過ごせる場所が見つからなかったからです。

けれど、空腹と前日の野犬の恐怖で眠ることなどできません。目は冴え、頭痛もしてきました。虫の音が高まり、闇に響き渡ります。父は祠を飛び出し、両親の名前を呼びながら夢中で駆け出しました。足が向かうのは、家族の墓のある玉洞院。祠から6キロほど離れているその場所まで、父は息を切らし、ただそばに行きたくて、夢中で向かったのでしょう。

いつしか秋雨が降り出していました。田舎の墓地は土葬が多いこともあり、雨が降れば燐が青白く燃えて、子どもには怖い場所です。けれど、もうそんな怖さも忘れて墓地に駆け込み、家族の墓に取りすがると、抑えていた悲しみが堰を切ったように溢れ出てきました。父は家族を失ってから初めて、大きな声を上げて泣いたのでした。体が濡れることも、寒さも気になりませんでした。

墓地の向こうにある僧坊に明かりが灯りました。父はふと背後に気配を感じます。「どうした?」。思わぬ声に、父は涙と雨に濡れた顔で振り返ると、そこには家族の葬儀でお世話になった和尚様が立っていました。父は言葉が見つからず、ただ和尚様を見上げます。和尚様は何も言わず父を優しく抱きしめました。父は和尚様の懐に顔をうずめ、しゃくり上げました。和尚様の衣に染み込んだお香の匂い。その匂いを嗅ぐうちに、気持ちは落ち着いてきました。そして、葬儀の日のことを思い出すのです。「あの日、親戚や知人に励まされて一家の再興を誓ったのに、って急に今の自分が情けなくなってね」。寒さや飢え、不眠を体験したことで、父は辛い労働や折檻も、大したことではないと思えるようになっていました。心の中に、生きる力、自立の意志が芽生えてきたのです。いつしか雨は上がっていました。

和尚様は父の手をとります。父にとって、久しぶりに味わう心安らかな温もりでした。その手に連れられて夜道を歩きます。露に濡れた草を踏みしめながら、山から里へ。真っ暗な里の闇の中、円蔵さんの家のあたりだけ明かりが灯っていたといいます。

この経験は、父の通過儀礼だったかもしれません。家族を失った父が自立する気持ちを抱けたのは、少年から青年へと成長する時期だったこともあったと思います。また、この頃から、円蔵さんの様子に不調の兆しがみえてきました。きっかけは、戦後のハイパーインフレにあったようです。次回は、そのあたりを書いてみようと思います。いつもながら、松枝さんの名セリフでお別れします。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!


※トップの写真は、玉洞院から見た里の風景。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。