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工芸、きもの、伝統文化をフィールドに書き手、伝え手として活動していますが、noteでは、プライベートな楽しみとして、ゆっくり長く書き続けていきたいと思っています。

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  • 父の小父さん

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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと お知らせ

noteに投稿していたこの物語が書籍になりました。 『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』里文出版 2200円+税 明日、12月7日発売になります。 温かな優しい一冊に仕上がりました。 よろしくお願い申し上げます。 https://www.amazon.co.jp/%E7%88%B6%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%98%E3%81%95%E3%82%93-%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%83%BB%E5%B0%BE%E5%B4%8

    • 父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 31

      一九八三年(昭和五十八年)、三月三十一日。その日の尾崎さんは、同じ月の一日に逝去したばかりの小林秀雄を特集した『新潮』を隅から隅まで読んでいたそうです。小林秀雄も、尾崎さん同様に、志賀直哉の門下であり、志賀直哉を敬愛してやまなかった人でした。それゆえ、尾崎さんの失意はひとかたならぬものでした 夜になり、尾崎さんは体調の異変を感じて、習慣になっていた晩酌(一週間でオールドの瓶を一本空けるペース)を控えるのですが、夜九時頃には心臓が苦しいと訴え、躊躇の後にかかりつけの医者が呼ば

      • 父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 30

        二〇二〇年、令和二年という年は、全世界が不安に包まれる一年でした。文明が高度に進んだかに見えた私たち人類の非力を見せつけられ、身を護り、心折れず、生き抜く術を試され続けています。この期間、尾崎一雄さんの作品をいくつか読み直したのですが、もし今の世に尾崎一雄という文学者が生きていたら、どんな言葉でこの状況を表しただろうかと思ったものでした。 戦後の尾崎さんは、作品を通して、行き過ぎた科学万能主義に警鐘を鳴らしていました。機械文明、合成農薬、核エネルギーなどについて触れては、「

        • 父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 29

          この二月、私は父の住む家の隣へと引っ越ししました。もともとは父が営んでいたハンドバッグ製造会社の建物で、木造モルタルの築五十年超の家をリフォームして住んでいます。 五十数年前、ここに移ってきた時は、私は幼稚園の年長さんでした。それまで自宅と父の仕事場は歩いて十分ほどの距離があり、引越しにより職住超接近となりました。同じ葛飾区の、鎌倉町から柴又へ徒歩圏内の引っ越しでした。 住宅は平屋で、会社の建物は二階建て。というのも、引越し前の鎌倉町の家で、私は階段から十回以上も落ちてい

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        • 父の小父さん
          32本

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          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 28

          尾崎さんの『大吉の籤』という作品に、父が独立して仕事を始めた頃のことが書かれています。大体の作品では山下昌久君、と本名で登場する父でしたが、この作品は例外的に仮名となっています。たまたま尾崎さんが、旅先の食堂で引いた籤(昔、よくありましたよね、灰皿兼用のおみくじ。十円入れると小さな巻物状のくじがコロン、と出てくる)が大吉で、お福分けした三人の男性が揃って幸先いいスタートを切ったものの、二人は残念な顛末となり、あと一人の父はどうなるか、というような展開で、本名で登場させづらかっ

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 28

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 27

          私の誕生日と両親の結婚記念日は、同じ五月二十一日です。結婚してちょうど一年後に生まれたのが私でした。だから母とは、「お誕生日おめでとう」「結婚記念日おめでとう」とお祝いし合っていました。 父と母は、血の繋がっていないイトコです。母の父である佐一さんと父の父である林平さんは、伊豆の牧之郷でご近所づきあいする間柄でした。林平さんの家は、父を引き取った円蔵さんと林平さんの二人兄弟で、田舎としては子どもが少ないことから、子沢山の家の末の方だった佐一さんを引き取ったのです。佐一さんは

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 27

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 26

          現代に生きる私たちにとって、お金はなくてはならないものです。このお金は、時に人を助け、時に人を破滅もさせます。作家の尾崎一雄さんは、若い頃に父親の遺産を使い果たし、また、作家として目処がつくまでは極貧の結婚生活をしていた人です。が、その貧しさを楽しんだのが、妻の松枝さんで、そんな松枝さんとの生活から生まれた短編作品『芳兵衛物語』や『暢気眼鏡』は、尾崎文学の代表作となり、映画やTVドラマにもなりました。お金の苦労を人一倍した尾崎さんのお金に対する作法は、とてもとてもきれいなもの

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 26

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 25

          神奈川県の小田原にある「小田原文学館」には、尾崎一雄さんの書斎が移築されています。他にも、大量の蔵書や関連資料が松枝夫人からの寄贈により保管されています。父の書棚にあった収蔵品目録を見ると、尾崎さんが生涯手元に置いていた手紙の数は膨大で、しかもその幅広さに驚かされます。交流のあった文士たちの手紙はもちろん、父を始めとする一般人の知己からの手紙も多く、その中には、なんと私と妹が連名で書いた手紙までありました。 私たちの手紙は、きっと文化勲章受賞パーティーにお招きいただいた御礼

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 25

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと24

          作家の尾崎一雄さんが書いた父と父の家族を題材にした作品だけで一冊にした本があればいいな、と私は密かに思っていました。ある日、父の書棚から尾崎さんの出版目録なる立派な和綴じ本を発見し、ページをめくっていたところ、なんとあったのです。尾崎家と父の家族が出会った上野櫻木町の路地の人々を描いた『ぼうふら横丁』、東京大空襲で全滅した深川の山下家のことと父の行方を捜した作品『山下一家』、そして、父と再会した時のことを綴った『運といふ言葉』。池田書店版『ぼうふら横丁』には、その三作が収めら

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          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと23

          カエル、といえば、タフンバリ。おはぎは、ハンゴロシ。あんころ餅は、ミナゴロシ。子どもの頃に父から聞いた、父が伊豆・修善寺時代に出くわした奇妙な呼び名は、方言ならではの直截な表現が面白く、今も私は、カエルを見れば反射的に(タフンバリ!)と心の中で叫んでいます。最近になって、父がこれらの呼び名を耳にしたのは、高校時代のアルバイトでのことだったと知りました。さて、どんなアルバイトをしていたのでしょう。 ハイパーインフレと伯父・円蔵さんの投資の失敗で、親の遺産が雲散霧消してしまい、

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          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと22

          子どもの頃から、我が家には何かしら動物がいましたが、その多くは訳あって我が家にやってきた子たちでした。怪我をした伝書鳩、逃げてきたカナリア、脱走して保護されたヒマラヤンなど。中でも印象深いのは、ウサギです。新婚の叔父(母の弟)が夜店で買ってきたテーブルうさぎ。大きくならないという触れ込みでしたが、ウサギなど飼えない、とお嫁さんに拒否されて、うちで引き取ったのです。大きくならないはずのうさぎは、どんどん育ったため部屋飼いを諦め、父は木材と網を調達して、庭に兎小屋を作りました。し

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          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと21

          ハイパーインフレという言葉。最近だと、南米のベネズエラが思い起こされます。今年一月に記録した二六八万%という数字に驚かされましたが、戦後の日本も猛烈なインフレに襲われたといいます。理由はもちろん日本の敗戦によるものでした。戦災により企業の設備が打撃を受け、流通も滞り、生活物資が供給不足に。また、旧軍人への退職金支払いなど臨時軍事費の支払いがかさみ、物価が高騰。預貯金の引き出しが激しくなり、銀行券の発行高が急激に増えて、尋常ならざるインフレーションを引き起こしたのです。 「預

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          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと20

          父にとって姉のような存在だった従姉の世都子さん。彼女のことは何度か書きましたが、世都子さんは、父が宇久須村から修善寺に移ってからも、ちょくちょく様子を見にきてくれたそうです。父を引き取った家での待遇が目にあまり、「まアちゃん、あんたは近くにできた戦争孤児の施設に入ったほうがいいんじゃないか」と心配されたこともありました。 戦争孤児の施設。当時、どんな様子だったのでしょうか。二年前、終戦記念日前後の朝日新聞に、戦争孤児についての記事がありました。戦争孤児の会代表の金田茉莉さん

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと20

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと19

          新しく始まったNHK連続テレビ小説「なつぞら」は、父の琴線に触れるようで、珍しく見続けているといいます。主人公のなつが戦災孤児で牧場に引き取られたという境遇が、父とよく似ているのです。「牛のお乳の絞り方、とてもうまいよ。あれは難しいんだ。牛との相性もあるしね」と感心しています。「僕は手が小さかったし、両手で絞れなかったなあ」。今では懐かしい思い出ですが、当時は生活環境の激変に、戸惑いの連続でした。 父が驚いたことのひとつはトイレでした。「外にもあってね、そこに入れないんだよ

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          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと18

          父がぼそりと呟きました。「三月がやっと終わるな」。父にとって三月は辛い月です。家族を失った東京大空襲とともに、尾崎一雄さんが亡くなった月で、三年前には、父の妻、つまり私と妹の母の死が加わりました。 昭和五十八年(一九八三)三月三十一日に尾崎さんは逝去しました。八十三歳という享年は、大病をした尾崎さんとしては上出来だったでしょう。けれど、当日まで仕事をしていたそうですから、周囲の人たちにとっては急なことでした。私は葉山の友人宅に泊まりで遊びに行っていました。朝ごはんの時、ニュ

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと18

          父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと17

          私の父の両親は伊豆出身で、私の母の両親も伊豆出身です。なので、東京の東の端っこ育ちの私ではありますが、伊豆ののんびりと明るい空気にホッと気持ちが和むし、みかんやアジの干物は、ソウルフードに近い感覚です。父は十一歳から十八歳の七年間を伊豆で過ごしましたが、東京で生まれ育ち、そして東京に戻ってからは外に出ることなく今に至っている、つまり八十五年の人生の内、七十七年は東京で過ごしています。でも、父の感覚の中には、伊豆で暮らした八年間が濃厚に染み込んでいるように感じます。両親が伊豆出

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