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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 31

一九八三年(昭和五十八年)、三月三十一日。その日の尾崎さんは、同じ月の一日に逝去したばかりの小林秀雄を特集した『新潮』を隅から隅まで読んでいたそうです。小林秀雄も、尾崎さん同様に、志賀直哉の門下であり、志賀直哉を敬愛してやまなかった人でした。それゆえ、尾崎さんの失意はひとかたならぬものでした

夜になり、尾崎さんは体調の異変を感じて、習慣になっていた晩酌(一週間でオールドの瓶を一本空けるペース)を控えるのですが、夜九時頃には心臓が苦しいと訴え、躊躇の後にかかりつけの医者が呼ばれ、脈拍を取っているうちに症状が急変、救急車で運ばれたものの、病院へ到着するのを待たずに呼吸停止。

夜十時四十分、享年八十三歳でした。

青年期と壮年期に、二度の大病を経験、病や死の影と二人三脚しながら生き抜いてきた人としては立派な大往生に違いなく、ただ、兆候のないまま突然訪れた死でしたから、家族を始め、多くの人が驚き、別れを惜しみました。一年後に出版された『尾崎一雄 人とその文学』(永田書房)には、交流のあった文壇諸氏の追悼の文章が収められ、その稀有な人柄や作品を愛しむ言葉の数々に、最後の文士と呼ばれた尾崎さんの人物の大きさと文学的功績を再確認させられます。そして、今再び、尾崎文学を世に広められたなら、という思いに駆られます。

葬儀は、友引を避けて四月三日に。尾崎家が代々神官を務めた宗我神社境内での告別式は、尾崎さんが生前に名指ししていたとおり、葬儀委員長は丹羽文雄、司会は阿川弘之により執り行われました。五月を思わせる爽やかな晴天でした。

そう、あの日は晴天だったと何人もの追悼文に記されていて、私は自分の記憶の曖昧さに驚いています。というのも、脳裏にあるのは今にも雨が降りそうな空が広がるしめやかな景色なのです。爽やかな陽気はどうしても思い出せません。肌寒ささえ記憶しています。もしかしたらそれは、父の大きな喪失感が娘の私に作用して、曇天のイメージをつくり出してしまったのかもしれません。

父にとって尾崎さんの死は、不意打ちのような出来事でした。以下、父が書いた『思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭』から引用します。

あの夜、私は体調が悪くて、薬を飲んで早めに床に伏しました。うつらうつらしているときに、ニュースを観た知人から電話で知らせがありました。電話は家内が受けました。内容は、家内の受け答えでわかりました。私は金縛りにあい、起き上がることができません。続いてほかからも連絡がありました。でも起き上がれなかった。こんな突然、嘘だ! 嘘であってほしかった。

父の中では、尾崎さんはずっと自分の身近にいてくれて当然のような存在になっていて、まさか突然居なくなってしまうなど、信じられぬ思いでした。そしてしばらくは仕事も手につかない状態が続きます。

私には二人の尾崎一雄が居りました。一人はあまりにも突然この世を去りました。でも、もう一人は私の体の中で生き続けています。でも、おじさん! おじさんのことを思い出すと、目頭がすぐ熱くなります。が、しかし、その後体中が熱っぽくなって、頭ががんがんしてきます。もう一年になるのに、同じ状態です。(中略) 

私は昭和二十(一九四五)年三月に孤児になったはずです。しかし、おじさんを失ってみて、自分は孤児ではない、少しも孤独ではなく、おじさんに頼り切っていたことに気づいて、内心あわてています。確かに十一歳で孤児になり感情的な悲しさはいくらでもあったのですが、まだ自分ではちゃんとものを考えられていませんでした。そして、ようやく少しずつ自分でも考えがまとめられるようになったころ、子どものときにできてしまった心の空白を、おじさん、おばさんが埋めはじめていました。今やその空白は、すっかり埋まってしまっています。

東京大空襲で家族を失った父が、心の支えとしてきた親以上の存在、それが尾崎さん夫妻でした。が、父には遠慮もありました。幼馴染でもある尾崎家の三人の子どもたちにとって父はどんな存在だったのか。

こんな私の存在は、一枝ちゃん、鮎雄ちゃん、圭子ちゃんにとって迷惑なはずです。おじさん、おばさんを思う気持ちが深ければ深いほど……。私は、大声を上げて泣くことはできないのでしょうか、そんなことを繰り返し思ってきました。おじさんの心は、あまりにも大きくて深いものでした。私はおじさんにお礼の言葉を言えません。言葉では言い表せないのです。それでも、なにかお礼の言葉を探そうと一生懸命になっても、頭が痛くなるだけです。(以下略)

尾崎さんの一年祭を前に、夫人の松枝さん肝いりで開かれた「故尾崎一雄を偲ぶ会」は、生前尾崎さんが多くの友人知人をもてなした小田原市内の旅館、国府津館を会場に、参加者は、尾崎家の人々と尾崎さんとごく親しかった二十四人という、少人数の会でした。父は、松枝さんに請われて、尾崎さんとの出会いから始まる思い出を話すことになりました。松枝さんに何度か目を通してもらいながら書き上げた原稿を皆の前で読み上げ、後日、神奈川県西部及び静岡県東部エリアの地元紙である神静民報に掲載されました。

尾崎さんの死後も、父は年に何度か松枝さんを訪ね、思い出話に花を咲かせました。あるとき父は「おじさんは、僕の頼みを一度も断ったことがなかったなあ」と長年不思議に思っていたことを口にします。すると松枝さんは父を見つめて諭すようにいうのでした。

「まアちゃん、それが父というものよ」

なんという言葉でしょう。親は子どもの願いをすべて叶える存在とは限りません。けれど尾崎さん夫妻は、父を支える役割を全身全霊で果たすべく心ひとつにしていたのです。その思いを「父」という言葉で表現した松枝さんもまた「母」でした。

それにしても、尾崎一雄という文士と、ある一時期、隣家の子どもであったというだけの父と、なぜかくも絆が深かったのかと、私は考え続けてきました。

縁といえばそれまでです。昭和二十年三月九日東京大空襲の夜、上野桜木から深川へと引っ越した山下の家に、立ち寄れば泊まることになるからと、東京から神奈川県の下曽我にある自宅に直帰して命拾いした松枝さんが、尾崎家の存亡を分けたことは確かで、それは『運といふ言葉』など、一連の山下家作品に縷々綴られています。病に伏した尾崎さんにとって松枝さんは命綱でした。ただ、こうして尾崎さんと父の物語を追っていく中で思うのは、二人が絶妙なるタイミングで再会をはたしたこともまた、大きな引力になったのではないかということです。

戦争末期から戦後にかけて、重篤な胃潰瘍に苦しめられ余命三年と宣告されていた尾崎さんは死の影とともに年月を重ね、「生存五カ年計画」を全うして病を克服、生き続ける自信を手に入れました。一方父は、家族を失いながらも生きていくことの絶望や辛苦と戦い、高校卒業をするとすぐさま東京に戻ることで新しい自分を獲得します。

尾崎さんは病者として、父は戦災孤児として、ともに運命の理不尽に抗いながら、ようやく出口を見つけた時期。暗いトンネルを抜けた後の明るい光が、きっと二人の心の中に差していて、その光がお互いを相照らしたのではないかと、そんなことを想像します。

尾崎さんと父の物語は、ここで終わりです。父はコロナ禍にめげず元気です。この九月には米寿に。家族の分まで長生きしてくださいね。

そして今年も三月十日を迎えます。未明の東京大空襲から七十六年。夥しい命の犠牲があって私たちの今があることを、改めて胸に刻み込み、亡き人たちの冥福を、心からお祈りいたします。

※巻頭の写真は、上野の森の夕暮れ。父と尾崎さんが出会い、父が家族とともに幸せに暮らした上野の、静かな一刻。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。