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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 30

二〇二〇年、令和二年という年は、全世界が不安に包まれる一年でした。文明が高度に進んだかに見えた私たち人類の非力を見せつけられ、身を護り、心折れず、生き抜く術を試され続けています。この期間、尾崎一雄さんの作品をいくつか読み直したのですが、もし今の世に尾崎一雄という文学者が生きていたら、どんな言葉でこの状況を表しただろうかと思ったものでした。

戦後の尾崎さんは、作品を通して、行き過ぎた科学万能主義に警鐘を鳴らしていました。機械文明、合成農薬、核エネルギーなどについて触れては、「原始に帰れと言っているのではない。さかしらもほどほどにしたらどうか、と言うのである」と苦言を呈するのです。一九五五年の随筆『気がかりなこと』では、「日本では、雨が降って道が悪くなると、高下駄を発明する。西洋人は、道を直す」と。自然に対して協調的な東洋人に対し、自然を従僕扱いにする西洋的発想が広く蔓延することに対する危機感の端的な例は、なるほど、と腑に落ちます。自然というものは人間などが制御できるスケールではない、と隠居風情を装いつつ、鋭い視線で世の中を斬る人でした。

戦前戦後にわたる小説家としての功績を讃え、尾崎さんは、一九七九年秋の叙勲で文化勲章を受章。翌年の三月二十七日には、虎ノ門のホテルオークラにて祝賀会が催されました。父、母、そして私たち姉妹二人もご招待を受けましたが、ホテルのパーティなんて初めてだった高校生の私の記憶に残っているのは、『尾崎一雄君を祝う会』という横断幕の「君」という表現に、(文士のお祝い会ってカジュアルだなあ)と感じたことと、花束贈呈した檀ふみ(盟友である作家・檀一雄の娘で赤ちゃんの時から知っている、という縁。当時、慶應義塾大学卒の知性派女優として人気でした)がすらりと細く美しく、会場で唯一判別できた作家(ゴールドブレンドのCFで見知っていた)の狐狸庵先生こと遠藤周作が、思いがけず長身だったことくらいです。が、父にとっては、感無量の叙勲でした。父が尾崎さんの一年祭(神道の一周忌)で読んだ追悼文から引用します。

おじさんが七十歳になったとき、勲三等の叙勲をお断りになりました。その折、私に「八十になって文化勲章ならもらうのだけどね」と笑って話していました。私はそれを憶えていて、おじさんが八十になる春にうかがったとき、「もう八十になるのですから文化勲章もらえますよ」と十年前の話を持ち出すと、「あのときは、八十まで生きられっこないとおもっていたからそう言ったまでで、僕がもらえるはずない」と返されて、がっかりしました。

だから、文化勲授章のニュースは私にとっても生涯の快挙でした。一、二カ月は仕事も上の空でした。

でもその頃から、私は少しずつ淋しくなってきていました。自分だけのおじさんではないことに気づいたからです。私は遠慮していこうと思うようになりました。

尾崎さんは、そんな父の気持ちに気づいたのでしょうか。少なくとも父は、そのように感じたようです。

そんな私を見透かしたように、テレビ局からゲスト出演の話が持ち込まれ、喜んで引き受けました。番組は、『人に歴史あり 尾崎一雄』でした。

この番組について簡単に説明します。『人に歴史あり』は、一九六八年から八一年まで放送された東京12チャンネル(現・テレビ東京)の長寿番組で、日本を代表する著名人を毎回一人取り上げ、本人や関係者の証言やインタビューを通して人物の輪郭を描いていくような構成でした。インタビュアーはアナウンサーの八木治郎。テーマソングに乗って「人の世の潮騒の中に生まれて、去り行く時の流れにも消しえぬ一筋の足跡がある。今日は○○さん(その日登場するゲスト)の歴史を振り返ってみたいと思います」というナレーションが古式ゆかしく印象的でした。

録画の当日、勇んで東京12チャンネルのスタジオへ行きました。スタジオに入ると、おじさんはもう来ていました。同じくゲスト出演なさる阿川(弘之)先生と稲垣(達郎)先生に、私を紹介しました。「この人とは、四十年来の付き合いで」から始まり、「この人の親とのつき合いから始まったことです。私は人との付き合いが不器用なので、範囲を狭めて深く付き合うようにしているのです」と説明してくれました。

録画はリハーサルなしのぶっつけ本番でした。撮影用のライトが急に前にせり出してきて、目の前が一瞬真っ暗になり、すっかり上がってしまい、何か勝手の違う話をしてしまった、そんな悔いある思いで、スタジオから下りてきました。体は冷や汗でぐっしょりでした。

テレビ局の出口に車を置いた阿川先生が、下曽我まで送りますから乗ってくださいと、おじさんをうながしています。私はおじさんの背後にいて、その成り行きを見守っていました。テレビの出演は大失敗だったし、このままおじさんに去られたら辛いな、と思っていました。

するとおじさんは「僕は帰りは電車にする。それにこの二人も送っていきたいし」と一枝ちゃん(尾崎さんの長女で、この日の収録に参加)と私を指差しました。三人で局が手配したハイヤーに乗り、東京駅につけてもらいました。おじさんは「マーチャンも一枝もまあまあ立派だったよ」と慰めてくれました。東京駅の日本食堂で乾杯をして、おじさん、一枝ちゃんと別れました。

知人が番組を観て、山下さんとお話ししているときの先生のお顔がにこにこしていて、とても嬉しそうでしたよ、と言ってくれたのが、せめてもの救いでした。

当時は、一般人がテレビに出るのは一大事件でした。私たち家族も晴れがましいような恥ずかしいような気持ちでテレビの前に座ったことと思うのですが、あまり記憶に残っていません。画面の中の父と同様、ドキドキで、ドキドキしすぎて記憶が飛んでるのかもしれません。

それにしても立派なゲストの中に、父が加わっていたのだなあと、改めて驚かされています。作家の阿川弘之は、阿川佐和子のお父上という方がわかりやすいかもしれないのですが、尾崎さんと同じく志賀門下の最後の弟子で、生前から尾崎さんが葬儀の司会と名指していた関係。また日本近代文学の研究者である稲垣達郎は早稲田大学時代からの長く深い文学の同志で、お二人は文士・尾崎一雄の輪郭を描く役割だったのでしょう。一方、長女の古川一枝さん(妻の松枝さんが多忙で代理出演だったそうです。松枝さんはフィルム出演)と父は、人間としての尾崎一雄を語る役割を担ったのだと思いますが、父を指名した尾崎さんの愛情に、今更ではあるのですけれど、感謝しても感謝しきれない思いです。他にいくらでもふさわしい人がいたでしょう。

人と人の縁の面白さは、誰しも感じることだと思います。家族との縁が薄かった父ですが、尾崎さん夫妻との再会でどれほど救われたことか。また、尾崎さん夫妻にとっても、東京大空襲の夜、明暗を分けた運命の非情は、『運といふ言葉』『山下一家』などの尾崎作品にも描かれたように、深く楔を打ち込まれたような記憶だったに違いなく、それがいつしか肉親の情へと昇華したのではないかと感じたりしています。

次回は最終回になる予定です。ずいぶんと時間がかかってしまいました。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!


※巻頭の写真は、『人に歴史あり』に父が出演した際、局からいただいたスチール写真より。椅子が低くないか、と昭和のテレビ局のセットにツッコミを入れたくなる。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。