見出し画像

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと21

ハイパーインフレという言葉。最近だと、南米のベネズエラが思い起こされます。今年一月に記録した二六八万%という数字に驚かされましたが、戦後の日本も猛烈なインフレに襲われたといいます。理由はもちろん日本の敗戦によるものでした。戦災により企業の設備が打撃を受け、流通も滞り、生活物資が供給不足に。また、旧軍人への退職金支払いなど臨時軍事費の支払いがかさみ、物価が高騰。預貯金の引き出しが激しくなり、銀行券の発行高が急激に増えて、尋常ならざるインフレーションを引き起こしたのです。

「預貯金が封鎖されたし、古い紙幣が使えなくなったりして、大人たちは慌てふためいてたなあ」と父は回顧します。国はインフレ対策として、預貯金引き出しを制限、紙幣は旧券から新券に切り替えられました。いわゆる「新円切り替え」というものです。ところが、実施が半年切り上げられたこともあって、新券の発行が間に合わず、止むを得ず旧券の左上に証紙を貼るという苦肉の策が取られました。「貼るのを手伝わされるんだけど、上手に貼れなくてねえ。剥がれちゃうと、円蔵さんに怒られるんだ」

預貯金引き出し制限について、もう少し詳しく書きます。太平洋戦争敗戦から半年後の昭和二十一年(一九四六)二月十七日、銀行からの一世帯当たりの引き出し金額が月五百円に制限されました(当時の月五百円は今の七万五千円程度)。当然、大人たちはパニックになり、銀行には長い列ができました。銀行や郵便局に預けていた預貯金の大半は引き出せなくなり、毎日のように貨幣価値が急落。父の父、林平さんが遺したお金も、みるみる減っていったわけです(以前にも書きましたが、当初は、父が大学を卒業して家を建てられるくらいの金額がありました)。焦ったのは円蔵さんです。目減りしていく資産を何とかしなければと、林平さんのお金を元に、事業拡大を図ったのです。が、思うようにはいきませんでした。

酪農を営んでいた円蔵さんは、北海道から乳牛を買い足すことにしました。しかし、届いたのは雄の牛ばかり。文句を言うものの埒があきません。仕方なく転売をするために桑名まで運んで行きましたが、お金の代わりにつかまされたのが、あまり効果のない肥料でした。また、子を孕んだ乳牛を購入したものの、生まれた子牛が雑種だった、ということもありました。これは、父が中学三年生の時のことで、父はこの牛の出産に出くわし、たった一人で介助することになります。

「学校から戻ったら、牛の顔が前と後ろにあるんだよ。びっくりしてよく見たら、もう出産が始まっていたんだ。誰か呼ぼうと思ったんだけど、みんな畑に行ってて、もぬけの殻でね」。仕方なく父は仔牛を引き出して抱え、体を覆った薄い羊膜を外しました。また、胎盤など後産を牛が食べないようにのけることも忘れずにしました。「それからお湯を沸かしたんだ。見よう見まねだったけどね」。このお湯を母牛に飲ませていると、ようやく家の人たちが野良仕事から戻って来ました。「僕が一人で仔牛を取り上げたんで、みんなあっけにとられてたなあ」。仔牛は黒牛でした。「真っ黒ならまだいいんだけど、足の一本に、蹄のところに少しだけ白い毛束があってね」。雑種の仔牛を見た円蔵さんの落胆は目にも哀れでした。

その頃から、円蔵さんの様子に変調が見られるようになりました。戦中、戦後の混乱期、原因は様々あったと思うのですが、ハイパーインフレと投資の失敗が重なり、父のお金の大半を失くしてしまった罪悪感も、円蔵さんの心身を蝕んだに違いありません。一家の大黒柱で、父の後見人でもある円蔵さんは、ある日すっかり朧な人になってしまいました。これは大きな事件でした。

「もううちにはお金がないし、約束どおり中学までは出したわけだから、働きに出なさい、っておきみさんに言われてね」。おきみさんは円蔵さんの奥さんです。夫が病になってしまった上は仕方ないことだろう、という言い分です。けれど父にとっては青天の霹靂で、唖然として言葉が出なかったそうです。「旧制と新制じゃ、中学の意味は全然違う。鹿島組の人が言ってたのは、もちろん旧制中学を出て、大学に行って、それでうちに入社を、ってことだったからね」。困り果てた父は、千葉県の市川にいる親戚に連絡を取り、相談したそうです。すると、伝令のようにして、父の従兄がやってきて、「居座れ、って言うんだ。でも、どうしていいかわからなかったから、聞いた通りに、居座れって言われました、とおきみさんに伝えたら、ポカンとしてたよ」

中学一年までは、小学校時代の余力で成績も悪くなかった父ですが、何しろ勉強する時間がなく、十分な参考書も買えず、中二、中三と、みるみる成績が落ちていました。それでもなんとか追試を受けて、そのまま韮山高等学校に進学することが決まりました。「でも、これからは自分で稼いで家にお金を入れないといけない。考えてみれば、中学三年生からお金稼ぎを始めたんだなあ」

怒られてばかりいる戦争孤児の父を、近所の人は心配しながら見守っていてくれました。父がひどい折檻を受けて泣き叫んでいる声を聞きつけ、玄関にやってきたお隣のおばさんは、「その子はそんな悪い子じゃないと思いますよ」と、かばってくれたそうです。また、だんだん体力が付き、要領がわかってきた父が畑を耕す姿を見て、「おたくのお兄さんは違うねえ、と褒めてくれる人もいたんだ。それはね、土を深く鋤き返して、雑草を土中に埋め込むような作業なんだけど、こうすると雑草が堆肥になるんだ。同級生が遊んでいる間、ずっと働かされてたけれど、それなりに知恵を使っていることを周りの人たちはちゃんと見ていてくれたんだよ」

だから、父が自分で稼がなければならなくなったと知るや、周囲の人は何かと父に手を差し伸べてくれるようになったのです。次回は、父が始めた小商いについて書いてみようと思います。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!

※トップの写真は、父が暮らした修善寺から牧之郷あたりの田園風景。

尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。