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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと23

カエル、といえば、タフンバリ。おはぎは、ハンゴロシ。あんころ餅は、ミナゴロシ。子どもの頃に父から聞いた、父が伊豆・修善寺時代に出くわした奇妙な呼び名は、方言ならではの直截な表現が面白く、今も私は、カエルを見れば反射的に(タフンバリ!)と心の中で叫んでいます。最近になって、父がこれらの呼び名を耳にしたのは、高校時代のアルバイトでのことだったと知りました。さて、どんなアルバイトをしていたのでしょう。

ハイパーインフレと伯父・円蔵さんの投資の失敗で、親の遺産が雲散霧消してしまい、さらに円蔵さんは病に倒れてしまいます。これをきっかけに、父は高校に通うための学費や生活費を自分で稼がなければならなくなりました。最初は、近所の人に勧められた若鶏や豚の飼育程度でしたが、やがて、水道工事や測量の手伝いなど、外部の人から頼まれて本格的にアルバイトをするようになっていったといいます。

アルバイトをするきっかけとなったのは、円蔵さんの家の井戸が壊れたことでした。井戸の水が使えなくなり、山から水を引くことに。当時の中伊豆あたりで使われていた水道は、山に置いた大きな水瓶に貯めた水を鉄管で引く、単純な仕組みの簡易水道でした。

作業をする水道屋さんは円蔵さんの息子である不折さんの友人でした。水道屋さんはこの作業を不折さんに手伝わせようとしたのですが、病んだ円蔵さんの分まで農作業しなければならない不折さんは、自分の代理として父に手伝いをさせたのでした。こんなチビ使えるのかい、と最初は不承不承だった水道屋さんでしたが、知恵のある父をすぐに気に入って、学校のない土日や長期休暇には、口笛を吹きながら父を訪ねてきて「明日大丈夫か」など声をかけ、父をあちらこちらに連れて行くようになりました。
「水道屋さんは馬の蹄鉄づくりの家の息子で、蹄鉄づくりは当時まだまだ実入りのいい仕事だったけど、将来はないと考えたんだろうね。自分で水道の仕事を始めたんだよ。バンドをしている陽気な人でさ、いつも流行歌を口づさんでた。美空ひばりとか田端義男とか、このアルバイトの時に覚えたなあ」。
父がパチンコを覚えたのもこの時期でした。終戦後に大ブームとなったパチンコは、今から見ればいかにも素朴な仕組みでしたが、まだまだ混乱していた時代、射幸心を煽るこのゲームは、男たちにとって格好の逃げ場になったようです。「水道屋さんの仕事でパチンコ屋さんを知ったんだ。アルバイト後にこっそり覗きに行ったら、床に玉が転がっている。それを拾い集めてパチンコすると、結構玉が出てさ。景品のキャラメルをカバンに詰めて、高校で配ったんだ」。味をしめた父はパチンコ屋の常連に。ところが、どうやらそんな高校生が少なからずいたらしく、高校ではパチンコ禁止令が出てしまいます。「朝礼で先生から指導があった後、同級生の一人に〝ここに失業者がいるぞ〟と囃し立てられたよ」と父は苦笑い。せっかく玉が入っても、じゃらじゃら出てくるはずの玉が出てこなくて、パチンコ台を叩いて、「出ないぞお!」と声を上げると、途端に溢れるほど玉が出てくることもありました。「きっと、僕の境遇を知っていて、いろいろお目こぼししてくれてたんだろうなあ」と、その後、東京に出てから、腕に覚えがあるはずのパチンコで惨敗した時、父は人の情けに気づかされたといいます。

ともあれ、父にとってアルバイトは、大人への入り口でもありました。畑や家畜の世話などで日々追われ、ろくに勉強もできない閉塞的な環境が、円蔵さんの病によって一変。働かなければならないことに変わりはありませんでしたが、外の世界、大人の社会を体験する機会が生まれたのです。高校生になって体力もつき、また、お金を稼いでくることで頼られるようにもなって、家での立場はずっと楽になってきたのです。

水道屋さんのアルバイト以降、父は様々なアルバイトを経験するようになります。戦死により若い男性が圧倒的に減ってしまった戦後、いくらでも人手は必要だったのでしょう。そんな中でも、父にとって忘れられないアルバイトがありました。昭和二十五年(一九五〇)、父が高校二年生だった夏のこと、それまでの家屋税が固定資産税に吸収されることになります。そんな時期に、父は修善寺町の隣にある大仁町の家屋調査の手伝いに駆り出されました。家の大きさ、間取り、屋根の種類(瓦、茅葺き、スレートなど)を調べていく作業、つまりは税金を取るためのお役所仕事の手伝いです。

最初はメジャーの端を持つだけの補佐役でしたが、しばらくすると記録を取る係として重宝されるようになり、三人一組のチームとして町の家屋調査を一軒一軒進めていきました。「いろいろな家があったんだよ」。土間のみの家もありました。電線を一本だけ引いて、銅線のアースをつけただけの家。スイッチなどなくて、電球の接続部を緩めて灯りを消していました。「満州から引き上げてきた家族の家だったかなあ」。

高校二年と三年のふた夏、このアルバイトをしたことで、町の全容がだいたい分かったといいます。人の暮らしを垣間見ることは社会を知ること。このアルバイトを通して、父はたくさんの人生があることを実感したのではないでしょうか。そして、実はこのアルバイトで、父は例の奇妙な呼び名と出合ったのでした。

「こんなところにも家があるのか、っていう山奥に、すごい家があってねえ」。闇商売で儲けたのではないかとの噂もある家で、家のまわりには堀が巡らされ、優雅に鯉が泳いでいます。入り口への橋は跳ね橋で、鼠よけだと聞かされたそうです。「庭には堀から水を引いた池があったし、他に納屋や四阿がいくつかあった。山葵田も敷地内にあったんだよ」

家の中には村田二連銃が床の間に二丁飾られ、床の間の横にはライフ誌が積み上げられていました。息子さんはアメリカに留学、旦那さんは東京で仕事。「奥さんが一人で家にいて、絣のいいモンペをはいていたなあ」。この奥さんが父たちを大歓待してくれて、昼ごはんも用意してくれました。出されたお椀の具は「タフンバリだって言うんだよね」。何だろうかと蓋を開けると、お汁にアカガエルがプカリ。「口からぺろんと舌出していてねえ」。仰天した父たちは、おばさんが見ていない隙に、お椀の中身を窓の外に捨ててしまいました。すると、外の池の鯉がぱくっと飲み込んだのでした。

「アカガエルは、精のつく贅沢品だったんだけど、そんなことは知らなかったから、驚いたのなんのって。タフンバリって、田んぼで踏ん張っている、カエルの姿のことなんだよね」。休憩時間は座敷で昼寝。今度は「ハンゴロシとミナゴロシ、どっちがいいかって聞くんだ。物騒な名前だし、次は蛇だろうかと怯えてたら、おはぎとあんころ餅だったよ。ゴロシは、殺すってことだけど、米の搗き具合のことだったんだ」

そんな牧歌的なアルバイトでしたが、チームを組んでいたひとりが父に良い影響を与えてくれる人でした。韮山高校のOBで東京の医科歯科大学に通っていたエリート青年は、「韮山高校の教師について、すっちゃんはたいした数学の先生だよ、とか、学校の先生のいいところを教えてくれたんだよ」。農作業やアルバイトで忙しく、学業に身を入れることができなかった父でしたが、そんな話を聞くようになって、授業への向き合い方に変化が生まれます。「こっちはお目出たいから、すぐ真に受けちゃう。嫌いだった先生なのに、この先生はすごい先生なんだと思うと、一生懸命授業を聞くようになってね。すると苦手な数学がよくわかるようになるんだよ。それがきっかけで、どの学科も一生懸命勉強するようになったんだ」。おかげで、高校を卒業するときには恥ずかしくない成績だったんだよ、と父は少し自慢げに笑うのでした。

この先輩との出会いがなかったら、父は道を踏み外していたかもしれません。高校生になって体力も知恵もつき、大人の世界も見えてきて、しかもお金を稼げるようになったのです。病に倒れた円蔵さんは、もはや恐怖ではありませんし、学校をサボって、挙句に中退して、チンピラの仲間入りをする可能性だってあったでしょう。そんな危うい状況の父が、絶妙のタイミングで学問の楽しさを教えてくれる人と出会えたことで、高校時代を無事に終え、東京に戻る力を与えてくれたのでした。

ようやく次回には父と尾崎さんの再会を書くことができます。では今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。
三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!

※トップの写真は、伊豆箱根鉄道駿豆線。父が中学、高校時代に利用した鉄道。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。