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馬場俊英さんがいなかったら俺は死んでいたかもしれない。

去る2月21日はシンガー・ソングライター馬場俊英さんのデビュー25周年記念日。心から、おめでとうございます。

TOPの写真は「馬場白書」。10年前、つまり2011年、馬場さんの15周年の年に出されたアルバム『HEARTBEAT RUSH』の初回限定特典で封入された、それまでの馬場さんの15年を振り返る68ページのブックレット。これの編集と、表紙を除く全ページのデザインを担当させていただいた。かねてから馬場さんの音楽を日々の糧にしていた自分にとって、これは夢のような想い出。色校さえいとおしくて、いまだに捨てられずにしまってある。

もう音楽なんて聴くまいと思っていた

馬場さんの音楽と出会った2007年頃、僕の人生は完全に底を打っていた。自分ではそんなふうに思っていなかったけれど、今振り返れば紛れもなくあそこが底だ。いろいろあってそれまでの音楽絡みの仕事もライターの仕事もなくし、何か新しい仕事を始めなければと思いながら、進むことも戻ることもできなかった時代。

このままではまずいと思い、いくつかのアルバイトに応募した。倉庫のピッキング、ファミレスの厨房、引っ越し屋、そしてちょっと闇っぽい仕事まで。しかし、どれも3日と続かない。人が怖いのだ。入りたてで何もわからなくて当然なのに、わからないことを聞きに行けない。叱られるのではないかと思い委縮する。委縮するともうバイト先に足が向かない。そんなことを何度も何度も何度も繰り返した。最後、「物を運ぶだけなら人に会わずに済むだろう」と思って(そんなことはあり得ないのだけれど)面接を受けた運送会社を落とされて、ついにはバイトを探すことさえ諦めた。

もう音楽なんか一生聴くまいと思っていた。CDに触れることもなくなった。聴くのはせいぜいラジオだけ。テレビで観るのはニュースと野球中継ばかりだった。もうこのまま残りの人生を惰性で過ごしていくのだろうと30代半ばにして思っていた、そんなある日に偶然耳にしたのが馬場さんの歌だった。「スタートライン」が先だったか「ボーイズ・オン・ザ・ラン」が先だったかは忘れたけれど、その歌詞と、何よりメジャーの契約を一度切られてから自らの努力で復活したそのストーリーが響いた。

有り金をはたいてアルバム『人生という名の列車』を買ってきた。「君の中の少年」で馬場さんは、“まだ間に合うかもしれない”と歌っていた。何度も何度も。いつしか自分の心にも、そんな意識が芽生えるようになった。

2008年の暮れになり、とある求人広告代理店にようやく拾ってもらった。出勤の時、降りる駅の一つ前になったら必ずイヤホンで「ボーイズ・オンザ・ラン」を聴いた。最初の頃はそうして自分を奮い立たせなければ会社に入っていくことができなかったっけ。

当時の求人広告はまだ紙媒体がかろうじて残っていた時代で、12文字×2行の短いコピーの中に求職者へのアピールを込める。久々にキーボードを叩き、とにかく一つひとつを丁寧に、手を抜かずにやった。文章を書いて初めてお金をもらってからすでに10年以上が経っていたけれど、あんなに本気で言葉を絞り出したことそれまでなかった。採用なんて運とタイミングの問題かもしれないけれど、本気で言葉に「気」を込めた。まだ間に合うかもしれない、まだ間に合うかもしれないと思って。

馬場さんがつないでくれた縁

その「気」が伝わったのかどうか。2010年夏、かつての仕事で関係のあったレコード会社のディレクター氏から連絡があった。話を聞いて驚いた。朝日新聞に掲載する馬場さんの記事広告の取材をして欲しいという。名前は知られていないけれどその人がいなければ地域や組織がまわらない、そんな人たちを馬場さんが訪ね対談する「あなたを必要としている人がいます」と題された4回シリーズ。僕は馬場さんと相手の方の対談を取り持ち、馬場さんのサイトに掲載する対談記事を書いた。うれしいことにその記事がまだ馬場さんのサイトに残っている。

この4回の想い出は、僕にとって本当に宝物だ。馬場さんと出会えたことはもちろん言うまでもなく大きな出来事だったし、この時の縁で朝日新聞デジタル&Mの「私の一枚」もやらせていただくことになった。今僕が取材で心に留めているポリシーもここにルーツがある。

ちなみに、この対談の2回目に登場した山本歩(あゆむ)さんは僕が提案した人選だった。山本さんは埼玉西武ライオンズの元投手。前年で引退し、この時はライオンズの二軍で用具係をやっていた。化学者を目指し大学院への進学を考えていたが、想定外のドラフト指名を受けてライオンズに入団。ケガもあって結局芽が出ず引退し用具係に就いたものの、化学への未練があった。そんな中、馬場さんとのこの対談が決め手となって、山本さんはあらためて化学の道を歩む決意をした。

山本さんは大学院を卒業後、現在はみなさんもよく知っている某大手化学メーカーで活躍している。うちの会社は以前からその某化学メーカーにお仕事をいただいていて、2年前には担当者を介して山本さんとメールを交わすことができた。これもまた馬場さんが結んでくれた縁だ。

「馬場白書」に込めたわがまま

冒頭で紹介した「馬場白書」の仕事は、対談シリーズが終わってしばらく経った頃に再び担当ディレクター氏から依頼をいただいた。15周年を記念するブックレットになるということで、過去の写真やそれまでに馬場さんが書いてきたブログや文章など、膨大な量の素材から印象に残るものをファン目線でピックアップしてまとめた。すべてを読み、泣く泣く削る想いで68ページにまとめたけれど、収録した言葉の中でとりわけ僕の、そして多くのファンのみなさんの胸に残っているのは、この日のブログだと思う。当時の馬場さんの気持ちを思うとこちらまで泣けてくる。

馬場さんの曲はどれとは選べないほど好きな曲がたくさんあるけれど、このブログの内容も相まって、アルバムで言えばやはり『フクロウの唄』が一番好きだ。音楽家としての行き場を失った絶望と、それでも前を向こうとする希望の両方が渦巻いているようで胸に響く。そして、すでにこのタイミングで「ボーイズ・オン・ザ・ラン」が生まれていたことに驚く。

「馬場白書」の最後のページでは、大阪城ホールでのライブ「1万人のピース」の客席を映した写真の上に"さぁ、次のページさ"と文字を入れさせてもらった。『フクロウの唄』の最後を飾る「I Write a Book」の1フレーズ。

僕はアーティストではないので物を作る時にはなるべく「個」を消したいと思っているけれど、ここは珍しく少しわがままをさせてもらったかもしれない。16年目からその先へ向かう馬場さんの姿をイメージしたものだったけれど、本当は自分に向けた言葉だったのかもしれないと、今となってはそうも思う。

馬場さんのおかげで「パーパス」が見えた

仕事を失ってからマデニヤルを立ち上げるまで10年かかった。10年かかってようやく自分を10年前のレベルにまで戻せたということだと思うし、失った10年と言ったら言い過ぎかもしれないけれど、感覚的にはまだ年齢マイナス10歳のスタンスで仕事をしている。よく「仕事を受け過ぎだ」とも言われるけれど、あの頃のことを考えたらもったいなくて仕事を断ることなんてできない。

もしも馬場さんの音楽に出会っていなかったらどうなっていただろうと思う。もしかしたら、もうとっくに死んでいたかもしれない。自殺するほどの勇気はないから、きっと酒が原因だっただろうか。今も特別長生きしたいとは思っていないけれど、生きているのも悪いものではないなと思うようにはなった。きっと馬場さんが"まだ間に合うかもしれない"と言ってくれたからだと思う。

自分がそうだったし、山本歩さんもきっとそうだったのだろうと思うけれど、馬場さんの言葉にはきっと、人を再生させる力が宿っているのだと思う。だとしたらそれは、馬場さん本人が底を見て、その底から再生してきたからに違いない。自分は馬場さんのように何かで人に力を与えることはできないけれど、せめて自分が作るべきものを丁寧に作ることで、人に喜びやあたたかさを与えられたらいいと思う。までに。丁寧に。

それがきっと、底を見た自分に与えられたパーパスなのではないかと思う。

たかはしあきひろ…福島県郡山市生。ライター/グラフィックデザイナー。雑誌、新聞、WEBメディア等に寄稿。CDライナーノーツ執筆200以上。朝日新聞デジタル&M「私の一枚」担当。グラフィックデザイナーとしてはCDジャケット、ロゴ、企業パンフなどを手がける。マデニヤル(株)代表取締役