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CARAT ZINE

쉽진 않았지

2023/2/25、やっかさんの「相互CARATさん、雑誌をつくりませんか。」というツイートから動き出したCARAT ZINEが11/8についにリリースに至りました。
それまでも時折話題には上がっていましたが、ふわふわした「いつかやりたいですね〜!」を「いつか」ではなく「今から」にしてくださったあの日、便乗でしかないけれど「やりましょう!」と言ったほんの少しの覚悟が今、大輪の花火のように打ち上がっています。

ものづくりや創作なんて才能のある特別な人にしかできないと思っていた私ですが、ちょうど通話中と2人で制作した私家版歌集「薄明」も佳境を迎え、何もないところから本が出来上がるまでのひと通りの流れを知り、それが全く簡単ではないことも、簡単ではないけれどできないわけではないということも実感を伴って理解した頃でした。

その「全く簡単ではない」作業をもう一度、しかも複数人で取り組むということへの不安は無視できるものではありませんでしたが、あの日はこの機会を絶対に逃しちゃダメだと思いました。
まるで永遠のように感じるSEVENTEENを愛する気持ちがあっても、私が来年も同じようにCARATをしている確証はないし、ZINEのメンバーも受け取ってくださる方々も来年も同じような温度で繋がれているかは分かりません。
好きな気持ちは変わらなくても、ものを作るということに必要なバイタリティを来年の私が持ち続けているとも限りません。
この機を逃したら「次」はもう二度と来ないかも知れない…本気でそう思いました。

あの日の私に一歩踏み出す勇気があって本当によかった…

やっかさんそして同じくやりましょうと言ってくださった麻花兒さんと3人で最低限必要な目線合わせをし、他のメンバーをお誘いしようとなった時も、正直怖かったです。

あなたの作品を見たい、あなたの作るものを見たい、そしてあなたの作る過程を見ていたい…
幸せなことにそう思えるCARATさんに囲まれていて、今回お声がけすることができなかった方々にもそういう願いを持っています。

一方で、先述したようなただでさえ「簡単ではない」ものづくりを協働で、かつフルリモートで実施すること。年齢も居住地も職業もバラバラどころかお互いよく知らない…そんな中で意見交換や価値観の擦り合わせをしていく。手間もお金も時間もかかるし、最後には人に届け、お金を頂戴して販売することになるわけですから「想いを形にする」ということからさらに踏み込む必要があって、しかも途中下車はできないとなれば容易にお声がけはできませんでした。
全くの杞憂ではありましたが、全員が全力を尽くしても(あるいは全力を尽くすからこそ)共同制作という場をきっかけになんらかのわだかまりが生まれることがあってもおかしくないとすら思っていました。
実際振り返ってみると、皆さんがそれぞれの誠実さを尽くしてくださったので苦労したなんて言うには円滑すぎるくらい円滑に進んでいたように思います。それでもやっぱり、簡単ではなかったですよね。

쉽진 않았지 너와 나 여기까지도
簡単じゃなかったよね あなたと私ここまでも

Campfire

ウリメンバドゥル(言ってみたかった)
…の皆様
完成まで一緒に走ってくださって本当にありがとうございます。

8人で作ること

私個人にとってZINEメンバーの7人はどうしたって特別で、かけがえがなくて、あなたじゃなきゃダメで、あなただったからこそ私は「拝啓」を書けたし、あなたじゃなきゃこの幸せは辿り着けませんでした。

けれど一方で「CARAT ZINE」という作品は、CARATの普遍的な愛の一部だと思っています。そういう意味では「8人の選ばれし者による作品」ではなく「なんら特別ではない、けれど一人ひとりが特別な或るCARATの作品」としてこの世界に存在していてほしいと願っています。

人間は多面的で、一人として同じ人生を歩んでいなくて、同じものを見ていても、同じものは見えていません。それが恐ろしいことではなく素晴らしいことなのだと教えてくれたのはSEVENTEENでした。
だから、私は私で、あなたはあなたで、それを残そうとすることに価値がある…「CARAT」という名前が表すように、そこに集う人生の数だけ反射して煌めきを増すのだと思います。

8人の作品が、それぞれの守る星となって、そこに「間」ができ、繋げば「星座」ができ、「面」ができる。私の精一杯を尽くした作品がonly oneでありながらone of themであること。
閉じることなく、広がる。続く。
そういう在り方が私の考えるSEVENTEENへの「I love you」「사랑한다」そして「愛してる」にとても近く、しかしそれはどんなに言葉を尽くしても1人では表しようのない在り方でした。
今はもうそれが私の外側に、これ以上変わりようがないものとして生まれていることが有難く、すこしホッとしています。

自主制作ということ

noteにしても、薄明にしても、CARAT ZINEにしても、私の紡いだ言葉や作ったものが誰かに届くのは、それがSEVENTEENのことを綴ったCARATの言葉だからです。
SEVENTEENの魅力と彼らが作った土壌に支えられているのだということは常に自覚しなければいけないし、私はSEVENTEENの行く道を汚す様なものづくりをしてはいけないと思います。

そもそも何かを作りたいという想い自体がSEVENTEENによって育まれたもので、きっと彼らに出会わなければ全てを「残すほどのものはないな」で済ませてしまっていたでしょう。

なので純粋な創作ではないかもしれないけれど、
それでも、
自分で何かを作ること、
それを誰かに見てもらうこと、
それが確かに届き、
受け取ってもらえたと感じられること…
SEVENTEENという自主制作アイドルを好きでいるうえで、そこにしかない歓びがあると身をもって感じることは、私にとって必要なことでした。

SEVENTEENを初めて知ったとき、同時に彼らを象徴する「自主制作アイドル」という言葉を知りました。
当時表現やものづくりに縁のなかった私は、それらは心を剥き出しにして晒すことだと思っていて、正直称賛よりも心配が先に出てきてしまいました。
ただでさえ激務であろうアイドルとしての仕事に、本来必須ではないはずの作詞作曲などの業務が加わること。商品や技術だけでなく「人間」の部分が提供する価値に組み込まれてしまう職業であるなか、歌やダンスやそれらを繋ぐ物語の部分まで彼らが背負うというのはあまりにも酷ではないかと。

CARATとしての私は彼らの作品を受け取らせてもらっている立場ですし、彼らを好きでいることと彼らが自主制作をしていることは切り離せないので、やめるべきだと言うつもりも資格もありませんが、人が背負うにはあまりにも重すぎるのではないかという想いは今も変わらないです。

ただCARAT ZINEを経た今、「自主制作アイドル」であることは彼らの負担だけではなく、SEVENTEENでいる理由の一つになっているのではないかと思えてならないのです。

ほんの数回しかものを作っていない中で何を知った風にと自分でも思うのですが、ずっと「作る側」ではなかった私だからこそ新たに知った世界を書き残します。

自主制作は自己決定の連続であると同時に、
何かが生まれるまでの全ての瞬間に立ち会えることだと思います。
自分が想像するよりも、HOWTOを調べてみるよりも、ものが生まれるまでには多くの過程があり、その分だけ人が関わります。直接話し合う人だけではなくても、さまざまなシステムやサービスに人の営み、歴史、創意工夫が垣間見えました。

自主制作をすることはなんでも一人でやることではなく、そういう数えきれないほど多くの「人」との接点を知ることでした。

彼らの口からはいつも制作の苦労以上にたくさんの方々への感謝や労いの言葉が発されていますが、それこそが彼らが自主制作アイドルであることの証ではないかと思えるのです。

人に届くということ

SONGSで「どうして今自分たちが成功したと思いますか」という質問にジョシュアさんが「運と、そしてCARATが僕たちのチームワークを素敵だと評価してくれているし、良いエナジーを受け取ってくれているから」と答えていました。
どこまで謙虚な人たちなのだろうかと思ったけれど、今ならその言葉の奥に広がるものが少しわかる気がします。
「わかる」という言葉は抽象的で厄介ですね。
当然彼らの胸の内はわからないし規模も立場も経験も何もかも違うけれど、ジョシュアさんがその言葉をきっと社交辞令ではなく心から思って発したのだろうという実感が湧くこと。
どうしてそうなるか見当もつかない突飛な発言ではなく、その言葉の源流を私も知っている気がするという意味での「わかる」という感覚です。

言葉も作品も、世の中に出して受け手に渡ったらその先どのように受け取られるかわかりません。
真っ向から否定的に捉えられることもあるでしょうし、有益無益上手下手など評価の対象として捉えられることもあると思います。どんなに善意をもって作ったものも、「悪意」と捉えられればもうそうとしか見えなくなってしまうこともあると思います。

だから端的に、簡潔に、実用的で評価のしやすい表現をしなければいけない…
そんな強迫観念に駆られますし、同時に「わかりやすい表現」は相手に伝わったということが自分にとってもわかりやすく安心する側面もあります。
批判も怖いけれど、誰にも何も響かないのが一番恐ろしい。

そんな私ですが、SEVENTEENのことを語るとき、わかりやすさを少し手放して自分の心に向き合うようにしています。
少なくとも自分なりの善意や誠意を尽くしているつもりですが、私の手を離れてなお、悪く捉えられるでも失笑されるでもなく、ただまっすぐ眼差してもらえることは幸運としかいいようがありません。
言葉にならないと言っていただけることや「受け取りました」というご報告の後の無言の時間すらも不思議なことに「届いた」と思えるメッセージになっていて、やっぱり私にとっては奇跡です。
いただいた感想を通して私が作品を作るときに思い描いていた以上に鮮やかな景色を見せていただくことも多く、ただただ涙がこぼれます。

そういう交わりのなかで、皆様と交わしているのは目に見える「もの」や「情報」だけでなく「想い」や「時間・空気・温度」なのだと疑いようもなく信じられるようになりました。

世間的な成功とかではないけれど、そういう身に余る瞬間に巡り合うたびに「どうして」という問いが浮かび、同時にジョシュアさんの言葉を借りるように答えが湧いてくるのです。

素敵な出会い、メンバー、機会、環境に恵まれた運と、CARAT ZINEの取り組みを肯定的に捉え、その裏側の過程に想いを馳せてくださり、丁寧に想いを汲み取って、それをまた伝えてくれる方々がいるからだ、と。

これが謙遜ではなくごく自然に湧いてくる感謝であることがとても心地くて、嬉しいのです。

CARATでいること

言葉にすることが全てではないように、
形にすることが全てではありません。

ただ、私がCARATでいることの歓びを何かこの世界に残すとしたら
人を美しいと思うこと
繋がること
残したい想いが生まれること
何かかたちにすること
それが「あなた」に届き、
届いたのだと分かること。
その全ての過程に、SEVENTEENがいること。

それはまさにCARAT ZINEそのものでした。

共に「ひかった」瞬間を目撃し、
それを「ひかったね」と分かち合う「あなた」がこの世界にいて、そんなふんわりとした表現が「あなた」に届いたと信じられた。

何度でも言いたい。
「あなた」に伝えたい。
この世界に残したい。

CARATになれて嬉しいということ。
CARATでいられて幸せだということ。
これら全てSEVENTEENがもたらしてくれたものだということ。

大好きでも愛してるでも全然足りないこの祝福へのささやかなお返事をこの世界にそっと置いておけることが嬉しいです。

改めて、
やっかさん、麻花兒さん、umeさん、LEONさん、ぱわ〜さん、白玉ちゃん、通話中
CARAT ZINEに関わる全ての瞬間は、紛れもなく私の青春でした。
青春を共にしてくださって、本当に本当に本当にありがとうございます。

ZINEを受け取ってくださった42人の皆様。
私たちの作品を信じて購入してくださってありがとうございました。
皆様に届いて初めて完成するものだと思っています。
皆様のお声もまた、CARAT ZINEです。

出逢ってくださった全てのCARATの皆様。
あなたがいなければ私は今これほど幸せにCARATをできていません。いつも本当にありがとうございます。

SEVENTEENの皆様
내 사랑은 겨우 이것밖에 안 돼
그래도
이건 당신께 주는 메시지입니다.

いつかまた、次のCARAT ZINEが生まれる日まで。

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