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私にとっての厄日

11月11日は私にとっての厄日。
この日は日付に気づくと1日気分が落ちている。

私が中学2年生の頃両親が離婚した。
その兆候はもうすでに出ていて、母は新しい男に夢中そうだったし、父はその中でも家庭をどうにか維持しようと必死そうだった。
10月のいつだったか、母が家を出て11月1日に久しぶりにその出ていった母が帰ってきた。

もう中学2年生の私はその兆候にも気づいていたし、母が帰ってきて「嬉しい」という気持ちはなく、「あぁ、ついにかな」という気持ちしかなかった。

夜に話あっていた両親。
私と妹達は「部屋に行ってなさい」と隔離された。
小学校5年生と4年生の妹は不安そうな顔をしていて、小学校1年生の弟は早めに寝ていた。

不安そうな妹たちが可哀想になってずっと「大丈夫」と妹たちに言っていたのを覚えている。
今思うと自分に言い聞かせていたのかも知れない。

元々、母が出て行った時に「あんたはおとんと合わないだろうから、落ち着いたらばば(母方の祖母)のところに行こうか」と言われていた。
きっとそうなるんだろうなと思っていた。

話し合いが終わった後、母が部屋に入ってきて「パパと離婚することになったから。ママが出ていく。また落ち着いたら会いにくるから」と言い残し、私たちの言葉を待つことなく出ていった。

その後の生活は覚えていないけど、引きこもりニートみたいな生活をしてたと思う。
元々少し前から学校には行ってなくて、父が家にいる時はトイレ以外部屋から出なかったし、お風呂も父が寝た後か仕事に行った後に入ってた。
ご飯もそんな感じ。

その忘れもしない11月11日。
帰宅した父に何か言われたんだと思う。あまり覚えてないけど「妹たちが怖がっているから」とか「ちゃんとした生活しなさい」とかそんな感じだったと思う。
そもそも父と顔すら合わせたくなかったし、なんで今更そんなこと言われなきゃいけないの?って感じだった。
「うるせーな」とかそんなこと言って、手鏡を父に投げた。
運動神経皆無のノーコン女な私は、父にぶつけてやろうと思ったけど外れて横の壁に当たった。
鏡は粉々に割れた。
「何がそんなに気に食わないんだ」「全部!!!きもいまじで!!!」みたいなやりとりをして出て行ったと思う。

ケータイだけ持って家を出た。
外は雪。普通に寒い。でも行くところもない。
とりあえずその時メールをしてた友達に「家を出てきた。なんも着てないから寒い」みたいなことを送った気がする。
その直後、その子から電話がかかってきて「あんた今どこにいんの!?!?」って言われたので「〇〇公園にいる〜。さみ〜〜〜」「バカじゃん?ちょっと待ってて、移動すんなよ」みたいな会話をした数十分後に大量の上着と温かい飲み物とお菓子を持ったその子が現れた。女神かと思った。

しばらく話をして、両親が離婚したこと、母が出て行ったこと、父との仲が最悪なことを話した。
その子は何をいうわけでもなく、「そうだったんだ」「辛かったね」って話を聞いてくれた。
しばらくして、ケータイに電話がかかってきた。
児童相談所の福祉士の人だった。
その日、子どもたち(メインは私)について今後どうするのかを話にきてたらしい。
さて、そこの周辺地域の担当の子や親に会いに行って帰ろうかという時に、父がその人に電話をし、私が出て行ったことを伝えたらしい。

「寒いよ。風邪ひくよ。今後どうするかはこれから話し合うとして、1回帰ってきて欲しい」そんなことを優しく言われた。
もう外は暗かったし、雪は降っているし、友達をそんな長い時間拘束するわけにもいかないし、行くところはないし。
父以外の人間がいるならと、とりあえず家に帰った。

家に帰り、その人に、父とは話はしたくないこと。今は家にいたくないこと。学校でも上手く行っていないことを話した。
その福祉士は「そうだったんだね」「うんうん」と、否定も肯定もせずに話を聞いてくれた。
直前に家出したこともあり、何回か家出の前科もあったので保護の必要ありと判断されたのか、そのまま一時保護された。

車の中でも、一時保護所でも「あなたのお父さんは立派な人だよ」と言われたけど、気に食わなくて「何が?あれのどこが?ただの冴えない親父っしょ」と悪態をついた。
福祉士からは「一時保護はね、親の同意がないとできないんだ。世間体とかを考えて、明らかに虐待の跡があって保護の緊急性があるのに、意地でも承諾しない親もいる。その点、あなたのお父さんは今は自分とあなたが離れたほうがいいって判断をしたんだね。立派な人だと思うよ」って言われた。
保護所の職員さんは私が幼稚園生の頃からいる人で「あなたたちが昔ここに来た時のことを今でもよく覚えているよ。お母さんが入院することになって、どうにもならないって思って、このまま共倒れになるくらいなら子供達だけでもって、必死に頭を下げてた。職員にあなたたちを預けるときも、離れがたい顔をして、でも頭は最後まで下げてたの。お願いしますって。子どものことを本当に考えてない親ならね、そんなことはしない」
そんなことを言われた。

その時は本当に気に食わなくて、私だけが辛いと思ってたから「ふーん。でも親なら当たり前じゃね」みたいなことしか言わなかった気がする。

今ならわかる。あんなに立派な人はいない。

妻が他の男の元へ行き、プライドはズタズタだっただろう。
自分の仕事は長距離の運転手で、時間もまばら。子育てへの不安もあっただろう。
それに加えて反抗期の言葉では済まされないくらいの私がいる。
後から知ったことだけど、母は預金を全部引き下ろして出て行ったらしい。
口座残高は数百円。この1ヶ月どう生活するかも考えてて、とにかく必死だったんだと思う。
でも、そんなこと子どもに話せないし、どうにか私を立ち直らせなければ。その一心だったんだと今なら思う。

その後の私の生活はまた色々あるんだけど、長くなるのでまた今度。

こうやって、振り返るとそこまで悪い日じゃなかったと思う。
助けてくれる人がたくさんいた。
最悪の一歩手前で止まれたのは、その人たちのおかげだと思う。

今まで、振り返らなかったから、悪い記憶だけが蘇ってきてたのかな。

奇しくも、覚えやすい日にこんなことがあった。
あれから数十年経った今でも、結構鮮明に覚えている。

今日を境に、いい日に変えていけたらと思う。

こうやって、振り返って吐き出して、「結構悪くなかったかも」なんて思って
そういうことを繰り返して、うずくまっている子どもの私を解放してあげる作業を少しずつしている。

あんた、頑張ってたね。
でも、こうやって振り返るとそこまで悪くもないんじゃない?

そうやって、たまに後ろを振り返って、少しずつ前向きに生きていけたらと思う。

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