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エスカレーターに思い出はない

エスカレーターに乗っている時間を後ろめたく思う。

確かにどこかには近づいているけれど、何も考えなくていい時間。
例えば、義務教育を受けている期間。
例えば、学校をサボってアルバイトをしている時間。
例えば、セックスフレンドと過ごしている時間。

「移動」のタスクが行われているから、「思考」のタスクを切っても許されると思っている。俺が、俺に。

🌫

エスカレーターに乗るとき、癖で左手を手すりに添わせる。自然と左に寄って立つ。関西ではない。

右側の空いたスペースを人が歩いて通りすぎていく。
一列になって移動している左の俺たちとは別軸で存在する人たちだ。右の、奴らは倍の速度で移動している。

すると、俺は「エスカレーターに運ばれている」感覚に襲われる。
空っぽにした脳に、それは強く突き刺さる。

右の人間は、「思考」をやめていない人間だ。彼らは「移動」中にだって、移動したい。
「思考」を辞めている左の俺を、俺が責める。
追い抜かれ、置いていかれる俺が、ただ時間に運ばれる。

次第に怒りがやってくる。
右の人間のためにスペースを作っている自分。
右の人間のためにスペースを作ろうとする空気。
その空気から抜け出して右に立てない自分。
エスカレーターに運ばれているのに、エスカレーターに乗っていると思っていた自分。
「思考」をやめた自分がいること。
「思考」をさせられている自分がいること。

🌫

せいぜい30秒もするとエスカレーターは途切れ、俺は新たな階に放たれる。
その平地では、人々がばらばらに動き回り、俺(誰)が迷子になっても立ち止まっても誰(俺)も気にしない。各々の目的地なんて知らない。
エスカレーターに乗っていた時間を1秒も覚えていない。

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