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短歌「読んで」みた 2021/12/03 No.21

 究極の別れのかたちとは。私たちが恐れるものの本体について。そのことを深く考えさせられた一首を今回は読んでみました。

 Do not go gentle into that good night.
おやすみなさい。と言うのが怖い これっきり、生きては二度と会えぬ気がして

 白水 ま衣 『月とバス』(2018年 私家版)

 この「おやすみなさい」は文字通りの、眠る前の声かけであり、夜に人と別れる時の挨拶でもある。眠る前であれば睡眠というブランク、別れであれば物理的な距離がある。どちらにしてもこの挨拶をしたら、相手としばしの別れがある。その間に、永の別れが来てしまったら。相手との関係がどんなものであろうと、ある夜手を振って別れてそのまま。眠って、そのまま。別れ際、軽く別れてしまっていいのだろうかと思う。
 「生きては二度と会えぬ気がして」の持つ意味合いは深く取りたい。死んだら会えないことと、生きている間に会えないことは意味が違う。あなたとの意思疎通は相互通行でいたい、という切実な意思表示に感じるのは穿ち過ぎなのだろうか。

 また、一首の中に、区点、一字空け、読点と音にならない存在があることは無視できないディティールである。歌に込められた感情を表す上で、視覚にも聴覚にも効果的に働く。上の句の大幅な字余りと音にならない記号の存在は自らの中にあるものを手探りで言葉にしていく作業を視覚化したように思え、続く七・七14音のかたちの整った下の句の本音の吐露とも言えるものと対応し、切実に思いをこちらに伝えてくる。

 と、ここまでが歌のみでの読みなのだが、この歌には

Do not go gentle into that good night. 

 という詞書がある。
(詞書:和歌や俳句の前書きとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したもの。『デジタル大辞泉』より)

 この韻を踏んだ一文。イギリスの詩人ディラン・トマスの詩「Do not go gentle into that good night.」だろう。これについては検索すれば原文・対訳ともたくさん出てくるのでそちらを参照してもらいたい。

 この短歌は「Dylan」という30首からなる連作の内の1首である。連作内の他の短歌にディラン・トマスの名が登場し、作品が引用されていることからこの詞書は先に挙げた「Do not go gentle into that good night.」にあるとは推測できるが、引用の提示はないので詩の内容は踏まえつつも文字通りの意味、「穏やかな夜に身を任せないで」と取っての読みが上記のものである。この詩の意味までも含めるとまた解釈は変わる。そしてこの部分は映画『インター・ステラー』にも引用され登場する部分なので、そこも考えるとまた変わる。どこまでの意を汲み取ればいいのか迷ってしまうところではあるが、それこそがこの歌の面白さ・深さであり魅力であると感じて今回挙げてみた次第である。

 *  *

 死とはなんだろう。人はなぜ死ぬのだろう。死んだらどこへ行くのか。完全に明快な答えなんてきっと誰も出せない。しかし、死者はあわれなものである。死後の世界があるとしても、霊や魂の存在があるとしても、あちら側からこちらに意思表示出来ることは少ない。怪談や都市伝説の幽霊譚を見ても、あくまで例外であるし、死者の意志だと言われる心霊写真にしろ、このデジタルのご時世、指一本で削除出来てしまう。供養や祈りが通じているのかの手応えや反応もわからない。これが私たちのおそれる死の本体なのではないか。二度と通じ合え無いことがつらいのだ。日々のニュースやお悔やみ欄を見て人が普通に死んでいくこともわかっている。だから余計にこわい。

 人にとって他者とのコミュニケーションは何よりいちばん大切なものであること。この歌を読んでそこのところに思い至った。太古の昔からおそれ、出来る限りのことを尽くして喪に臨む。そうして折り合いをつけて行きていくのが生。日々暮らしていると日常に流されてつい忘れがちになってしまうが互いに生きている今が、実はかけがえのないものであることをも、この歌によってあらためて提示された心地がする。

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