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短歌「読んで」みた 2021/12/29 No.23

雪が降るとすぐに歌人たちは「ゆひら」と言いたくなる。その端にいる私も数日前の初雪に言いたくなって、今年は言わないことに成功。それはいいとして今日はその元ネタである短歌のお話を。

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
 穂村 弘『シンジケート』1990年 沖積舎(新装版 2021年 講談社)

 元ネタはこれ。歌人なら知ってて当然とまでは思わないものの、かなり膾炙されている。有名な作品と言える。
 歌の言いたいところを読んでいくことにする。膾炙されているだけあって、沢山の人が紐解いている。それについては検索してみて欲しい。いろんな読みがあるが、4句目までは単に事実を描写するのみで結句の「雪のことかよ」で作中主体の心情が表れる。それだけの、実はどうとでも読める歌であることに今日気づいた。人はこれをどう読むのかについて解釈がかなりまちまちだったのだ。少女という人もあれば恋人とする人もあり、子供と父のこととする人もあった。婦人体温計で測っていて、「(子供が)出来た」が「ゆひら」になったのでは、という解釈もあった。もっと複雑な関係も当てはまるだろう。BLもいける。懐の深い歌なのである。

 やはり特別な関係の二人の光景であると思う。しかもおしゃれな感じを出してみたもの。この歌が作られた時代、体温計は日本では脇に挟むのが一般的だった。子供の頃、海外の物語の挿絵で、頭に氷のうを乗せられて口には体温計をくわえている子供が描かれていて、驚いたことがある。「はー、外国はそんなとこまでおしゃれねえ」などと思ったものである。これは私だけの感覚なのだろうが、挟んでいるよりくわえている方が絵面が決まる。実景であるなしにかかわらず、口にくわえることを欠かせないこととして歌に描いているのだと感じた。脇ではだめ。くわえているから景の色彩が豊かになる。(ちなみに婦人体温計は舌下測定、しかも起床後身を起こす前に計測するものであるからあてはまらないだろう。もっといえば体温を測っただけでハイ妊娠とわかるものではない)
 額を窓につけていることは子供がよくやる、ただ見るだけなのに窓にくっついてしまう、窓の外の事象に肉薄しようとしているからの行動と取取ることも出来るのでは、と感じた。
 そして性別について。私は一首で読む時はこの作品の中に言及されていないものは留保すべきと考えるので決めつけたくはないが、この作品が含まれる「シンジケート」という連作は恋人同士の関係を詠んだと思われるものであるので、そこから考えれば男女と読むのが自然であると言える。

 「ゆひら」は、やはり「雪だ」の舌の回っていないものとしていいだろう。体温計をくわえているという描写の強い補強にもなる。作品中に「さわぐ」とあるから一言静かに言ったのではなく、何回か言ったのだろうし、それははしゃいでいる状態と取ってもいい。
 それに対しての作中主体は「雪のことかよ」と受ける。ここまでの初句から4句目までと同様に色んな取り方が出来るが、どのルートでも共通していえるのは、否定的な気持ちが向けられているわけではないということ。ゆひらと騒ぐ相手に、雪が降っているのか、雪のことを言っているのか、などとと思っている。熱があるけどまあ元気だな、と思っているのでは、などと深読みしていいかもしれない。呆れか、いずれにしろそこには二人の間の特別な関係性が見える。「ゆひら」「雪のことかよ」と言い合える関係性。そこに生まれるともすれば甘さとも感じられる親密さ。私たちはこの歌を読む時、そこに深く心を沿わしてしまう。そして自分が思う関係に読んでしまうのではないだろうか。

  *  *

 この歌に触れて、この解釈の多様さについて、驚きはしないけれどとても気になった。読みが揺れる短歌はよくない、とはどこかで聞いたことがある。しかし短歌の読み方とは、正しい解釈とはなんだろう。外国のおえらいさんが言ったという「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言う言葉が頭をよぎる。短歌もそんなものなのではないだろうか。多くの人の中に印象深く留まるものが良い短歌なのではないか、と思うのである。

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