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短歌「読んで」みた 2021/09/12 No.14

いつだって風は一人で吹いているさみしき者の洞をめがけて
 上野春子『雲の行方』(六花書林 2018年)

秋が来た。
今年は秋が早い印象。
涼しくなってくると、風に体の隅々まで吹かれているような感覚を覚えるものである。それまで夏の熱風に吹かれてげんなりしていたのだからとても爽快でありつつも、やや行き過ぎた感もある。ただ吹かれただけでなく何かを持っていかれたような感覚。それは普段意識していない、自分の前向きではない部分に意識が向くということなのかもしれない。

秋の歌として思いついたのはこの歌だった。まるで風に体を預けているような印象のあるこの歌。いつだって一人で、さみしき者に吹いている風。めがけているのは洞だという。私は「洞」を「うろ」と読んだ。洞とは内部が空になっているところを指す。「木の洞」などと似た使い方。皆、それぞれが違う洞を持っている。それは喪失だけでなく欠落もあるだろう。そこをめがけられたらたまらない。
風がそこをめがけることは、同じ属性のものとしてひかれて、と想像してもいいだろうし、もっとファンタジー要素を加えていたずら心としてもいいかもしれないし、自分のはまりこめる安住の地を探していると思ってもいいかもしれない。そのどれだとしても、さみしい洞はさみしいままで、体を洗うが如く吹く風に翻弄されるばかり。充当されるわけでもなく体を冷やしてはえぐってくるものだから、秋はさびしい。

 *  *

まだ喪失感など考えたこともない時分から、秋風は苦手だった。涼しいこと、心地の良いことは歓迎しつつも、全身に吹き渡る風は年端も行かない、物心すらついていない子供にとってもさみしさが体に満たされるものだった。

子供の頃、夏前から秋の初めは夕食後が飼っていた狼犬の散歩の時間だった。家業の都合で夕食の時間は5時半過ぎ。日の長い九州では7時半過ぎまで明るく、散歩の時間として十分だった。狼犬は大人でしか付き添えない気性の荒さで、リードを持つ祖父に私がついていくスタイル。祖父にとっては狼犬と私を散歩させている感覚だったかもしれない。
大河の河口部。遊歩道となった立派な堤防の上を歩く。決めていたルートは一本道で途中大きな橋の袂で折り返すのがいつものパターン。往きはとても明るいのに、帰りは日没から薄暗くなるまであっという間で、日々それが早くなっていく。入り日の色も夏のようなあっけらかんとした色ではなく、まさに一日の終焉と言った色となり、凄まじくなっていく。夏のままの簡単なワンピースでサンダルの私の体を、容赦なく吹き抜けていく風。足の指の間までをも吹かれ、何かが奪われたような気がした。たまらなく寂しい気持ちをそんな空気はどこ吹く風、人に従う気などさらさらない狼犬の態度と、いつも変わらない祖父が和らげてくれていた。

その頃のことを思い出した。もしかして洞はすべての人にはじめから装備されていて、誰でも秋風に吹かれればここに在ることを認識するものなのではないだろうか。人の心の有り様を風のように茫洋と、しかし確実に指摘した歌であると思った。

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