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前川國男邸復元工事報告書/江戸東京たてもの園 建築の書架から その11

昨日の江戸東京たてもの園のミュージアムショップで購入した「前川國男邸復元工事報告書」を書きたい。
報告書なので、白書である。¥2,000-である。他で購入できないので、ある意味レアで、家宝クラスである。
この報告書がただの報告書でない点は、最後に座談会「建築家前川國男再考」講演録が掲載されていることで、これがこの本の白眉であるが、もう一つ驚いたことが記載されていたので、それから。

この住宅の設計者は前川國男氏だと明記されているが、実際は担当した所員の崎谷小三郎氏が設計を進めた。前川國男事務所での設計の進め方は、ル・コルビュジエのアトリエと同じで、スタッフがプランニングをし、それに対してボスがOKや修正を加える、ボツにする。この住宅の場合も、担当者として崎谷氏は二人目で一人目の浜口ミホ氏のプランは前川氏が納得せず、不採用。で崎谷氏がその後を引き継ぎ、ミホ氏のプランをどうして前川氏が気に入らなかったのか考え、ワンルーム形式とし、前川氏が納得した。
崎谷氏が影響を受けたものとして、ドイツ・シュツットガルトの集合住宅展示場のコルビュジエ、伊勢神宮、守屋邸(1936)、飯箸邸(1941)、レーモンドの住宅等。
前川氏は自分の考えを「こうあるべきだ」と押し付けつことはなかった。自邸だけでなく、他の作品でもそうだった。

と、此処まで書いて、ああー、そうだったと。自分のことで恐縮だが、現代計画研究所に勤務しているときも、ボスの藤本昌也氏は、2^3日に一度はスタッフの所へ来て、スタッフが書いたスケッチの上にトレッシングペーパーを引き、マジックであーでもないこーでもないとエスキースをしていた。が、スタッフの案を気に入ると、弄ることもなく、それは採用された。

で振り返って、自分が学生さんたちの設計製図の実習でエスキースの指導をするときも、全く同じだった。


ここからは座談会録から要約を。

司会 藤森照信氏
パネラー 大谷幸夫氏(建築家)・大高正人氏(建築家)で、前川事務所OBが大高正人氏、丹下健三事務所OBの大谷幸夫氏という豪華なメンバー。

要点を記載する。
藤森氏:前川氏が戦前は時代的にコンクリートの建物がつくれなく木造を十数年やっていた。岸記念体育館、紀伊国屋も木造。
コルビジェのデザインが主流になるのは、世界でも日本・インド・ブラジル位。日本でも戦前はバウハウスの流れが主流で、レーモンド、前川、坂倉が少数派だった。が戦後は彼らが主流派になっていった。

大高氏:空襲で銀座の事務所やそれまでの住まいが焼け、この住宅でスタッフが仕事をし、前川夫妻が寝室一室で新婚生活をしていた。建築家としてやっていくのは大変だった。当分結婚は出来ないと思っていたと言われていたのを聞いたことがある。昭和17年にこの家を建てられて、つき合っていたが、結婚するのは昭和20年8月19日、終戦が15日。戦争が激しくなっていくなかで、よくそこを乗り越えられた。

大谷氏:設計の仕方は、自分では手を出さない。コルビュジエが言っていた。自分でその仕事に手を出すと、その仕事にかかりきりになって他が見えなくなるから、てをだしちゃいけないと。

大高氏:コルビュジエも肝心なところだけを書いて平均に見ていた。自分で書いちゃうとそれが絶対になっちゃうから。

大谷氏:丹下さんが広島を実現する時に、前川事務所から応援が行った。崎谷氏と大沢三郎氏。ディテールを書いてくださった。陳列館の上げ下げ窓のディテールとか。レーモンド事務所で訓練していて、前川事務所で蓄積をしていた。丹下事務所ではコンクリートの経験が無いので、前川事務所から道明栄次さんが来て現場の監理をした。コンクリートの型枠の経験が無かった。

ここまでで、座談会の半分です。後半は次回に。

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