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麦畑の家... / 原風景 その3 新光開拓通り

新しい家は、戦後開拓農家が入植して開発された地域にある麦畑や梨畑の真ん中に建てられた。
そこには、新光開拓通りと呼ばれる道が旧水戸街道の宿場から南南東の方向に伸び、私達が通う小学校を経由し、常磐線の小さな駅とその駅前商店街へと続いていた。
その地域は新治(にいはり)台地と呼ばれ、そのため畑や果樹園が多かったが、少ない低地には水田もあり、そこへ農業用水路が繋がり、そこに霞ヶ浦から機上で揚水した豊富な水が流れていた。
私達が越してきた昭和30^40年初期には、稲作が始まる初春から夏までは道の辺の大小の水路に豊富な水が巡らせるところだった。水路は、大きな幹線はコンクリートで造られていたが、小・中のものは、土手で出来ていた。
春先、田起こしの頃になると、それらの用水路に水が流れ出し、水田に満たされた。田植えが済むとやがてカエルたちが泣き出す賑やかな季節になった。
 用水路には、魚たちも一緒に上がって来た。ヘラ鮒、鯉、雷魚等々…。子どもたちが、それらを黙って見ている訳が無く、下校後魚とりの網を持ち出し、捕まえながら毎日遊んでいた。自宅の下駄箱の上の水槽には、そんな魚がいつも泳いでいた。

家の20m先の幅が60cm位の小さな用水路があり、澄んだ水中には、銀色のタナゴが泳いでいた。そのうち、滝がある場所に、雷魚など大きな魚達がいることが、分かったが、流石に堰き止めると、農家の人に怒られるだろうと思い、それだけは手を出さなかった。

だが、10年後にこの地域で宅地開発が進み、水田は宅地に成り、それらの水路は暗渠になり、蓋が被されて道路や遊歩道に変わっていった。今それらを見ることは出来ない。

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