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キリエのうた

一番好きな映画はなんですか?と聞かれたら、ずっと「スワロウテイル」と答えてきた。
1996年公開作品だから、27年間ずっとずっと。
なので岩井俊二の作品には特別な思いをもって触れてきた。今回の「キリエのうた」も、ただ休日に見る映画群のひとつという雰囲気ではなく、儀式というか通過点というか、やらなくちゃいけないことであり、ライフワークのような存在で、推し活でもあったりする。まあ、そんな感じ。

アイナ・ジ・エンドの歌声からスタートする本作は、時系列の表現が「ラブレター」のようだなと感じたり、要所に「スワロウテイル」をオマージュしたのではないかと思えるような、設定・セリフ回しが見て取れる。

初めのうちは、イワンとキリエが重ならない。イッコと真緒里も重ならない。そして効果音や音楽も不協和音で表現されていたり、カメラワーク(視線)も、シーンのカット割りも、どこかいびつで観ていると不安になってくる。

そうだ、これこそが岩井俊二の作品なのだ。文学を読んでいるかのように、重たい世界にどんどん没入されていってしまう。
少女二人の十字架が、観ている側の心にずっしりと浸食していく。

178分の作品なので、3時間は長いなぁ、眠くなったりしないかなぁ、トイレが近い席にしておこうかなぁ、と思っていたのだけど、そんなことを感じることはまったくなかった。いびつなパーツがつながり始めた頃、観ている側は少女たちの行く末を願いながら同じ映画時間の中に存在するようになる。

そしてそこにアイナの歌声が、一時の清涼剤のように脳みそに突き刺さってくる。

大御所監督らしく、脇役で登場する俳優陣が豪華であるのだが、それの弊害なのか脳内で設定が混乱してしまう。若さと美貌にあふれている女性は誰だと思っていたらお母さんだったり、急に登場した威厳ある有名俳優がインパクトを残してシーンが混乱するなど、セリフという表現の世界観がここでもいびつ。まあ、それが魅力でもあるのだけど。

スワロウテイルを引き合いに出すと、アイナ=charaは、言わずもがなで、そのような作品作りのラインにあるのだと思う。

広瀬すず=三上博史、黒木華=桃井かおり(もしくは大塚寧々)、松村北斗=渡部篤郎、北村有起哉=洞口依子

そして
粗品=ケント・フリック
だろうね笑

だから、アイナの「ルカ」は「アゲハ」でもあり、「キリエ」は「グリコ」でもあるわけね。

ここでアイナ・ジ・エンドについて触れる。

大人たちはアイナの才能を持て余していると感じる。多くのクリエイターがアイナ・ジ・エンドという存在を一生懸命作り続けているのだけど、どの作品(音楽も写真も映像も、すべての作品)に出ていても、アイナ・ジ・エンドはアイナ・ジ・エンドでしかないのだ。今回の「キリエのうた」もそうなのだが、「アイナ」と「それ以外」の出演者という風に感じてしまった。
映画のメインビジュアルに、薄い青髪の広瀬すずを起用していても、「アイナ」はキリエ、ルカと共に唯一の存在でしかない。主役であるとか脇役であるとかそんな話ではなくて、「岩井俊二が、アイナ・ジ・エンドと、今を代表する役者たちで作った音楽映画」に作品は昇華されたのだろう。

自分の才能を大人たちにクリエイションしてもらっているのは、彼女の優しさというか性格がそうさせていると、知り合いでもないのに想像するのだけど、もっと脳内にある唯一の世界観を自分でクリエイトしていってほしいと思う。余計なお世話。


僕は映画や小説など、作品について話をするのがとても苦手だ。

行間の感じ方は人それぞれで、自分の人生のストーリー、今まで使ってきた言葉、心に負った傷や溜めてきた想いなどを投影して【作品世界を自分で広げていくもの】だと思っている。作った方には申し訳ないが、人の考えていることが理解できないように、映画も小説も、絵画も音楽もバレエも、人の解釈の上に成り立ってできているからどうしても主観でしか語ることができない。
だからそれらが他人にも伝わるように書かれている文章をみると、本当にすごいと常日頃から思っている。


この後の一文はネタバレを含むので、作品鑑賞した人だけ読んでほしい。

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狭いインターネットカフェでご飯を食べているだけのシーンがエンドロールで流れるのだけど、こんなにも儚くこんなにも人間的な少女は他に存在するだろうか。家族を亡くし、壊れた携帯電話で姉と会話するルカというキリエ。いや、アイナ・ジ・エンド。
誰よりも幸せになって欲しいとみなが思ったことだろう。二人とも、いや三人とも。

それから、福島でキリエとルカが再開した後に命を落とすだろう場面と、イッコの最後がそのまま描かれていなくて本当によかったと思った。十分すぎるほど少女たちに感情移入してしまっている僕は、このシーンを目にしたらきっと立ち直ることができなかったと思う。特にスワロウテイルではフェイフォンの死んだシーンが描かれていたので、それと重ねながら「見たくない」とずっと思っていた。

北海道の雪の中。それを表現した美しさが印象的で、イッコは真緒里だったときのキリエとの思い出に包まれ眠っていったから本当によかった。本当に。

真緒里は女を商売にしたくないからと東京へいったのに、そんな簡単に生きていけるほど、思い描いている人生を送れるようになるほど、イージーな世の中じゃあないんですよね。現実は。

音楽という表現がある作品だったけれど、この「キリエのうた」の登場人物も、そして僕たちも、一生懸命「なにか」を残すために生きているんじゃないのでしょうか。一生懸命に。

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