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長編オンライン演劇『模範解答:素晴らしく人生』を見て、ド素人が感想言います④

簡単に分かりやすくまとめるつもりで、スゴカッタ部分を項目立てて書いてきたが、
それだけで2000字を超える3回分になってしまい、
自分でもちょっと驚いているのと、
この演劇の関係者の皆さんや、観劇した方達に、ちょっと引かれたりしていないだろうか…
という不安を抱えつつも、

アラフィフの自分と重ねてどう感じながら見たか

ということを、ストーリーを追いながら、今回は書いていきたいと思う。

◆身近な世界にもある、ある種の優性思想

<ストーリー要約①>
人間は生まれる前に研究所で研究員に一度育てられ、
社会の歯車となって生きれる「正しい人間」になるために、
より良い結果を得られた者だけが、人間界に転生する。
人間界では研究員を「神」と呼ぶ。
研究員1人に対して、育てる子どもは必ず双子。
どちらかが転生し、どちらかが消滅させられる。

「正しい人間」を作り出すというある種の優性思想、
そして失敗の烙印を押されれば消滅させられる、生まれることすら許されないという、
非情なこの選別は、嫌悪すらおぼえるものの、
そうだ、私達は知っている、
まさに私達が生きるこの世界でも、時として起こっていることじゃないか。

例えば、障害や病気が分かる出生前診断(単純に正しさをはかれる問題ではないが、生まれる前の選別ということで挙げておく)
例えば、学校や社会の中で障害者を分別区別すること、
例えば、特定の出生地を蔑むこと、
例えば、特定の人種や性別を見下すこと…
(これらはストーリー中で取り上げていることではない)

とりわけ、私達アラフィフ(それより上)世代は、
子どもの頃、そういった優性思想の中で育っている と言っても言い過ぎではない。
そういう社会、そういう大人達に対して違和感を感じていても、
強く抗うことはできずに育ち、その刷り込みは、
残念ながら今となっても度々染み出てくる世代。

自分の中にそんな部分はないだろうかと、
自分は偽善者ではなかろうかと、心底辛くなることがある。

だから、選ばれる物と選ばれない者がいるという設定に、
諦めにも似た受容と、強い反感を同時に感じるのだ。

なぜ受容してしまうのか。
それは自分自身を否定したくないから…

◆登場する子ども達と自分の子を重ねる

<ストーリー要約②>
研究員“曲従”に育てられている双子。
“アヤ” 「正しい人間」としての良品。
“ジュン” 欠陥品。
2人は性質の全く違う相手を意識しながらも、反発しあう。
別の研究員に育てられている双子、“ヒカリ”(良品)と“コウ”(欠陥品)もまた、同じ。
4人はそれぞれのシンドさを抱えながら、真実を知り、さらに苦悩していく。

このままやりたいことに突き進んでいいのか?
ちゃんと暮らしていけるだろうか?
自分のやりたいことは何?やれることは?
何が幸せで、何が自分なんだろう…

画面の中で子ども達が苦しんでいるように、
画面の外の彼ら(役者自身)も、多かれ少なかれ、きっと苦しむことがあるだろうな
と想像しながら見る。
親目線。

普段感じている漠然とした不安や、コロナによる閉塞感や、
大学を卒業したらどう生きていくかとか、
人生の選択での親との折り合いとか、
この作品を作った主宰の大学生2人の等身大の姿が、物語に色濃く反映されていたように想像する。
あくまでも想像。
これも親目線(;^ω^)

私の娘も大学生なので、今まさに自分の中で対峙している(あるいはどちらかに傾いている)だろう。
欠陥品の私(笑)と、ほぼ完成品の夫の間に育った子だから、苦労していると思う。
ごめん…という親目線。

◆現代の若い作り手と、30年前若かった頃の私の違い

<ストーリー要約③>
自分が夢中になれるもの、好きだと思えるものを見つけ出すものの、
そういったものは「才能のあるものがやること」と、
否定され、禁止される。

アラフィフの私が若い頃には、もちろんインターネットなどなく、
仮に劇団を作って公演を行おう!と思ったら、
そもそも一歩踏み出すハードルが高かったと思う。

それこそこの物語の中にも出てくるように、
演劇や音楽や芸術は、「才能のあるものがやること」
という感覚(にさせられていた)だったのではないかな。

そういったことをやるのは、どこか普段の生活とは切り離され、
かけ離れたところにいる人間がたどりつくような。
それを一歩踏み出すことのできる特別な人がたどり着ける道なのだと。

とはいえ、どこかそういう時代だったのは間違いない。
いい大学に入り、いい会社に入り…それが最上級のステータス、
かつ、当たり前の人生だったのだ。

これはあくまでも、芸術の世界に生きることを諦めてしまった私の感覚。
親に認めてもらえなかった、私の感覚であり、
私を認めてくれなかった私の親の感覚だ。

その点現代はといえば、技術やツールなどが、若者の普段の生活の中にすでにり、
なんなら生まれた時からあるわけで、
誰でもが表現することを躊躇うこともなければ、ボタン1つで世の中に送り出すことができる。
良くも悪くも。

飛びぬけた才能がなくても、その世界に入ることは容易だし、
とはいえそもそも、ボタン1つを押すことも、才能なんじゃないかとも思える。
今の私には、ボタン1つ押すことも、難しい。

ただ、何かを作って世の中に出すという過程は、今も昔もそうは違わないはず。
始めだす最初の一歩と、送り出す最後の一歩が違うだけで、
途中には煩雑で困難な作業が山ほどあったり、
上手くいったりいかなかったりと一喜一憂したりするはず、イマの子達だって。

自分ができなかったことを意図も簡単に乗り越えていく(かのように見える)現代の若者や、
作品中の子ども達が苦悩している場面でさえ、キラキラと輝いているように思える。
悩んで選び取れる人生の先が、まだまだ長いことを、少し羨む。
憧れと、賞賛とともに。

そして、つい、自分達ができなかったことを、
子どもらに託してしまいそうになるのが、大人のいけないところ。
子ども達からしてみれば、迷惑でしかないよな(-_-;)

◆誰しも選ばなかった人生に思いを馳せることもある

<ストーリー④>
マニュアルに沿った「正しい人間」を選び、人間界へ送り出しているのに、
人間界は一向に良くならない。(戦争、犯罪など)
研究員“曲従”が育てた子ども達は、いずれも「欠陥品」で、転生先で問題を起こす。
「正しい人間とは?」
“曲従”は、子ども達との生活の中で苦悩し、消息を絶つ。

前項のように親目線で言えば、子育ての中で迷うことは山ほどあるし、
子どもが成人した今になっても、あの時こうしていれば と繰り返し思い出す場面が
数えきれないほどある。

また、我々大人もいつだったか、作品中の子ども達と同じように悩んだことがあり、
手放したことがあり、
それをいつの間にか忘れてしまっていたり、
いつまでも忘れられなかったり…。
手放した未来はどんなだったろう。
そんな「もしも」の自分を思い描くことはある。

そして、多くの大人(彼らより年上の人間)が、
味わってきたり、薄ら感じてきたことそのものだから、
見ていて胸が苦しくなってくる。
いつだったかの自分の選択と重ね合わせて。

さらに、多くの大人が、人生を折り返す時期に
自分、これで良いのだろうか、これで良かったのだろうか
と思い始める。
私もそうだが、私の周りにも多くいる。

子育てがひと段落し、人生の終盤を意識したときに、
ふと、思うんだろうな。

自分は生きたいように生きてきたか?

と。

いや、私の場合、波風が何一つ立たなかった人生ではないし、
前述したように、ああしたかった、こうしたかったはあるけれど、
もっと前の大きな選択の場面で、どこかで違う選択をしていたら、
夫にも娘にも出会うことはなかったかもしれないし、
選択の末の今の“欠陥品”の自分が嫌いじゃあない。全くない。

それでも50歳を目の前にしてやっぱり思ったのだ。

選ばなかった人生を、今から選んでもいいんじゃないかって。

夫などはいまだに「自分探しの旅に出たい」と冗談めかして言うが、
ほぼ“完成品”に近い夫がもし本気で考えているのなら、
せめてリタイア後は、自由に生きてみようよ と思う。
(今自由にされると私が路頭に迷うのでwww)

子どもだけでなく、大人もまた、苦悩している。

とはいえ“曲従”さん!
子ども置いて逃げたらあかんよ!(笑)

◆どちらの自分も、自分

<ストーリー要約⑤>
双子の内どちらが転生するかは、総会での研究員の投票により決まる。
何が大切なのか訴えに戻ってきた“曲従”、
自分や“ジュン”の思いを伝える“アヤ”、
エリート研究員であり、双子の母親役に任命されていた“孤雌乃”は打ちひしがれる。
投票の結果、子ども達は苦悩を抱えつつも、受容する。
そして転生…

マニュアル通りに遂行しようとするのも、
マニュアルに疑問を覚えるのも、
1つの心の中に存在しうる、自分の姿。

“孤雌乃”の台詞に胸が痛くなる。

平凡に生きちゃダメなんですか

平凡と非凡の境目が分からないけど、
多くの大人達が平凡に生きていて、それを受け入れている。
食べていくために仕方ない。
家族を養うために仕方ない。
そもそも才能もない。

最初の項にも書いたが、平凡に生きてきた人間も、それなりに必死に生きている。
それを否定されるなんて、誰にとっても嫌なのだ。

だけどやっぱり一度くらいは、やりたいことを思いっきりやってみたかった。
今ね、そう思ってるよ、私、やってみようって。
平凡に生きてきたけど、非凡だと思ってるし(笑)
でも、もう、全力出すには体がついていかないんだな、これが(-_-;)

どっちかを選ばなくてもいいし、まぁ、全力出さなくてもいいんじゃないか って、
50歳になった今だからこそ思える ってこともある。

平凡だけど、好きなことやっていいじゃん。

そして、マルチエンディングに入る前のところで、
反発しあっていた“アヤ”と“ジュン”が、
どちらも自分であり、例え片方がいなくなっても、
どちらもずっと自分の中で一緒に存在していくんだと、
受け入れていく。

本当にそう思う。
今なら分かる。
選ばなかった人生も、これまで私を生かしたし、今の私を作った。
選ばなかった人生を頭の中では捨てられずにきたけど、
今、やりたいことに向かえる自分もまた、
私なのだ。



◆本当の自分としてどう生きるか、親との別離

最後に…
この見出し、ドキッとする?

すごく私的な話をするが、子どもの頃、私の中にはアヤとジュンが混在していた。
自分で言うのもなんだが、私はオールマイティーな子どもで、
読書家で勉強ができるアヤの部分と、
スポーツ万能で絵描きになりたかったジュンの部分。
親にほめられたい、好かれたいという2人の部分。
そして、壊れてしまった“コウ”の部分も。
積み木崩し(若い子は知らないか(;^_^A )状態に近いものがあり、
勉強が好きだったことや絵の存在がなければ、
その後どうなっていたことか…。

出来の良い私よりも、いわば出来の悪い妹の方が、親からも祖父母からも愛されている
と、物心ついた頃からずっと思っていた。

まぁ、芸術は諦めたけど、結局のところ、
まっとうな就職はただの一度もしたことがない。
歯車になれるほど精巧にできていない私は、
「正しい人間」になったことなどこれっぽっちもない。
その点妹は、親から見ても「正しい人間」なのだ。

50歳を過ぎてまで、いまだに親から生き方を否定され、
妹と比べられている私は、まるっきり“欠陥品”なのかな。

けれど、親を困らせたくない、喜ばせたい という気持ちからは
やっと切り離されて生きることができている。
もちろん迷惑をかけるつもりもないけれど、
そして逆に、家族なのに全く頼らないとか、頼られたくないなんてことはないけど、
私が私であるための生き方や考え方を、親に合わせて頷く必要はないと思えるようになるまでに、
私はえらい長い時間を必要としてしまった。

長く沁みついてしまった、親から認めてもらえないという現実からくる卑屈さは、
なかなかどうすることもできないでいるし、
もしかしたら一生私は卑屈なんじゃないかと思ったりもする。

もちろん親から否定されずに育った人もいるだろうし、
こんな素晴らしい公演を見せてくれた彼らは、
親からも認めてもらってるに違いない(と思いたい)。

それでも、親からの呪縛っていうのは、
とりわけ考え方の癖となって現れ、
本当の自分との間で、度々悩まされることがある。
自然と自分自身に取り込まれていることもあるから、
それが親からの呪縛だと気づかないこともあるかもしれない。

親からの離別っていうのは、
親を否定しろとか、拒絶しろとか、縁を切ってしまえとか、
私が言いたいのはそういうことじゃなくて、
考え方や生き方を親にすり寄らせる必要は、全くないんだよってこと。
親だけじゃないけど…学校とか世間とか、
当たり前のように中央値が全てかのように押し付けてくるけど、
親の影響はどうしても大きいから。
(縁を切ることが必要な家族もあるだろうけど…)

ただただ親が好きな幼少時代から、
親への思い、親からの思いの板挟みになったり、
親を嫌いにさえ思ったりする時期を経て、
親の人生もこれまた親の人生なのだと認め、
若者達が、早く自分だけの人生を進めるように、
ありのままの自分で生きれるようになることを、
祈っている。

大切な娘にも。

そして、自分を含めた大人達にも。

“欠陥品”の自分を、私はちゃんと愛せているよ。


「自分」であれるなら、なんだって正解だ。

模範解答:素晴らしく人生 は、この言葉で終わる。


********************

というわけで、

「長編オンライン演劇『模範解答:素晴らしく人生』を見て、ド素人が感想言います④」
~誰しも選ばなかった人生に思いを馳せることもある~

でした。

びっくり仰天の5500文字超え。
読んでくださった方は、なんと辛抱強い人なのでしょう!
ありがとうございます。

次回は、いよいよこの作品の最後の感想。
役者さんひとりひとりへ、感謝とエールをこめて。

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